声に出して読みたいケラリーノ・サンドロヴィッチ


「消失」感想があんまり長いので別項で。ケラとわたくし、みたいな。
あ、宿題とは別で。別腹で。


例。あくまで個人的な。有頂天は、希望、とか、穏やかで安らいだ人生が前に進み続けていく、というポジティブな人生観に

僕らはみんな生きているもの 生きていることに意味はない そこに意味はある かなぁ?(僕らはみんな意味はない」)

さあ 最高を 最低に さあさ変えよう(Sの終わり)

ってな歌詞をポップかつねじくれまくった曲にのせて歌い、
違ぇだろ?世の中には何もないしあらゆることはくだらないし、それでも気持ちいいとかかっこいいとかそういうので絶望を笑い飛ばすしかないんちゃうん?
ということを歌詞だけでなく楽曲構造からも訴えかけていた。
また、劇団健康では意味のないこと、くだらないこと、ただ笑いのための笑い、を見せる異様な人物達によるコントでありながら、ほのかにそれが日常とつながっていることをただよわせる、といった感じの芝居を演劇的手法をさまざまにパクリながら上演していた。


しかし、おそらく有頂天後期ごろから、その手法は少しずつ変わり始める。
それは有頂天・健康ともに、それぞれの世界でマイナーなフィールドからメジャーなフィールドへ、浸透していく過程に続いている。
インディーズレーベルからメジャーレコード会社へ。スズナリから本田劇場へ。
太田出版の「ナゴムの話」なんかに、その辺の過程はいろいろ書いてあるのだけど、ちょっとそれは抜きにして、作品の変化という点のみで言う。個人的なアレだからね。


ケラは、これまでの「絶望しかないのだから笑うしかない」という観点を中心とした作品から、「その観点もあるけど、世の中はそれすらも飲み込んでポジティブ。だから笑うしかない」という表現へ変わっていく。
絶望≠アンハッピー(インディーズ時代)から
アンハッピー=ハッピー(メジャーデビュー)へ
有頂天最後のスタジオアルバム「でっかち」のラストナンバー「卒業」は、導入打ち込み音と共に、歌詞の途切れ目にボコーダーでの「ハイヨ」という合いの手が入りつつ

すぐそこで 終わりだぞ 走れバカ ハイヨじゃないよ

と歌う。そして転調してビートパンクのサビ風なアップテンポに変わり、

卒業式終えた夜 少し何か変わった夜 いつかの懐かしい歌 朝まで聞いてたりね

と、センチメンタルにもろビートパンクに歌った後、

でもちょっと待ってよく見て ほらちょっと待ってよく見て どうでもいいよなことに 騙されてみようかね

とそれをひっくり返す。さらに続いて

君はバカじゃないけれど 実はほんの少しバカ 僕も同じくらいバカ バカとバカで急ぐ

ってな風にまとめてしまう。
センチメンタルな主観とシニカルな主観を並べた上で、どちらも笑い飛ばす。それが明るいメッセージ風なメロディやニューウェーブならではのポップな打ち込みで語られる。
アンチ、マイノリティとしての絶望があざ笑う対象としてきた、主観的な自己陶酔加減をどっちも主観でしかない、とさらに突き放す。


健康を解散して、旗揚げしたナイロン100℃の演劇も同様に展開する。
アイドル演じる女子高生のタイムスリップもの「1979」。
サイレント映画がトーキーに変わっていく時代へのノスタルジーあふれる「スラップスティック」。
ナンセンスコメディかつある小説家のカフカ風の混乱劇ともとれる「ウチハソバヤジャナイ」
などなど、キャッチーでありストーリー性のある筋立てでありながら、シチュエーションは自分で提示しておきながら、それをぶち壊すシーンが挟み込まれ、混乱し、でたらめにあちこちに飛ぶ。
健康もシチュエーションを作ってはぶち壊し、台無しにすることで笑う構造を持っていた。
けれど、ナイロン初期の作品は、でたらめにすることで、お話を進展させ、ストーリーが終わりへと向かっていく。ま、終わらないことも多いけど。ナンセンスの傑作などとケラが言ったり言われたりする「ウチハソバヤジャナイ」は小説家のストーリーとして決着していたりする。

ナイロン中期の「でたらめに決着に向かっていきながら、決着がすれ違う」やら
ロングバケーションでの「ポップスやジャズの構造を借りて感情の揺れ動きを歌いつつ、それを遠くの風景にしてしまう」と細かく見ていけばケラの表現はさらに二転三転していくけども、ちょっと省略、しよう。もうしんどい。


で、その流れから「消失」はどこに行っちゃったかは、後日。宿題。


自分メモ。こう展開する予定。
アンハッピー=ハッピー
ハッピー<アンハッピー=ハッピー
アンハッピー=ハッピー≠ハッピーエンド
ハッピー≠ハッピーエンド≠アンハッピー