ナイロン100℃という劇団、「消失」という公演


家でネットできないのでネットカフェで更新しないと、ってことでたくさん書いておこう。
12月22日の夜に見た。上手側最後列の一番端。紀伊国屋初めて行ったけど、コンパクトで最後列でも見やすかった。全体を俯瞰して見れたので、最後列も悪くなかったという印象。
ケラリーノ・サンドロビィッチの劇は、俺飽きっぽいのに見続けている。
なんでなのか。それが「消失」見て、漠然と分かった。というかなんというかそんなような気分、いや、じゃなくてとりあえずの現時点のなんかアレ。(引用・広川太一郎


地元の中古屋で投売りされてた有頂天の音楽にはまり、そこからビデオなんかもチェックして長いスパンのケラの活動にいちいち納得してきた。いちいち納得。
それが、毎回違う。
そういうことなんじゃないか、と思う。
作品の根底にある考えを形ににするたびに、その考えを、その表現方法を疑って、以前の考えのその先を、前とは違う手触りで表現するということ。止まらずに繰り返し疑い続ける、ということ。
その過程が、作品中または別の作品間でつながっている。同じように俺も考えてたよ、と「自分も同じ」と同一化する。考えてなかった考えに導かれて、「ケラをなぞって」思考をたどる。どちらかは、ちょっとおいといて。
これ以外かもしれない。そのように、舞台を見て、その構成を自分の中で組み立てる、解釈する。その組み立て方が多様である、ということがケラの魅力かな。


ちとあいまい。抽象的な話過ぎるな。
具体的に「消失」のシーンを挙げて、他の演劇と対比すると、見えてくるか?
んー、これは、宿題にします。