信濃川日出雄「fine 〜Two Step From The Blue〜」

Fine. (1)

Fine. (1)

全並行世界の俺に告ぐ。読め。


表現に度肝をぬかれると吐き気を催す。描写が琴線に触れると悪寒が走る。読んで、吐き気がし、悪寒に襲われ、咳が止まらない。病気じゃないかと言われても困る。病気である以上にぼんくらだ俺は。俺たちは。3億の精子と30億の卵子と無限大の可能性をもってしても、全ての俺たちはぼんくらだ。


クボヅカ先輩が空を飛んだ時、少しの憧れと嘲りを感じ、しかし、自分は飛ばなかったと悲しみにくれる者は、幸いにしてぼんくらではない。ぼんくらというのは、「俺だってあんときゃ飛んだんだぜ」と思ってしまった者である。俺だ。そのような自分語りするものもまた等しくぼんくらである。


何も残さない者も、何かを残してしまった者も、どちらも後悔をするだろう。後悔ばっかりするだろう。後悔は暮れる。暮れ続ける。人生は後悔の斜陽である。という言葉をモノリスに残したのも、またぼんくらである。言うまでもなく俺。


では如何にすべきか?聞いちゃうのがぼんくら。つーか何が変わろうがぼんくらに変わりはないんだって。ぼんくらを抜けると、そこはぼんくらだった。ぼんくらへのその拒否反応って何なのか、俺は自覚してんのか?それぼんくら。


さて。ぼんくらのことはどうでもいい。俺はマンガの話がしたい。マンガの話ばっかしたい。
花沢健吾が「うわー俺何やっちゃってんだ俺」という羞恥心の人だとしちゃったりなんかしちゃったりなんかしたら(CV:広川太一郎)、この人は「おいおい俺どうかしちゃってるよ」という羞恥の人である。
恥を行動で乗り越えるのが花沢健吾で、行動しながら恥じているのが信濃川日出雄だ。
今断言したのがすごい恥ずかしい。
乗り越えずに恥じっぱなしで何をかしていくものを見たいなぁーなどと思うが、そんなのはぼんくら言うことである。
たくさんぼんくらなこと書いたので、もう言うことはない。ぼんくら疲れた。寝たい。ぼんくらは皆寝るのだ。ぼんくらはいつか死ぬのだ。全然うまくねぇ。山田君、ぼんくらのぼんくら全部持ってっちゃって。こうしてぼんくらは滅びた。しかし、世界のどこかのここ3、4年新築の山田君宅に、ぼんくらは未だ眠っている。いつか目覚める日を夢見て。目覚めないけど。ぼんくらだかんね。