前置きを別枠にくくるほど長くするから、長い。

長い。
長いことだ。
もう5、6年。ひょっとしたら、その萌芽みたいなものは、小学校くらいから持ってたから、十年以上、ひっかかっていたことがある。
俺の思っていることと他人の思っていることは、なんで違うんだろう?


青くせえ、と鼻で笑うやつらはちょっと待って。
本当にないのか?
話したいことがうまく言葉にできていない、その瞬間。
話している間は伝わっているつもりだけど、後になると、あれ?ちゃんと言えてないんじゃん?っていう、その感覚。
あるいは、相槌を打ちながら俺これトーク番組の話のフォーマットなぞってるだけで、理解とかしてないなぁ。うまく飲み込めぬよ、その空気。


例えば、萌えという概念について。
あまじょっぱい思い出とか、あれがもっとこうだったらなぁという妄想は、人一倍多い私ですが、それが何故、ウハウハだったりラブラブだったりエロエロだったり、なるのか?
それ何か変換してないか?
んで、その変換が当然のものにしてないか?
俺はわかんねえよ。


他には、「俺はこの世に残ったただ1人のパンク」。
この言葉に意味はある。通じる。
でも、そんなこと言う人は、俺の思うパンクじゃない。
ってわけで、理解ができない。


もうちょい分かりやすい例。親の言う言葉。「大学くらいは出ておきなさい」。
親の気持ちも分かる。そういう価値観が、日本の中でどんな風に培われたか、なんてのも分かる。
でも、なんでか理解できない。
カウンターとして子供の説く論理。「大学出るだけが人生じゃない」
両者の議論はお互いに「うん、分かるよ」という言葉を繰り返しながら、すれ違い続ける。


昔の人は偉いもので、そんな状態を表す言葉を考えてくれました。
いわく、「齟齬」。


で、なんでそうなのか、ってこたあさておき。
そのような齟齬。齟齬齟齬している状態。
これは、古来から物語の要をなしておったりします。
俺が私が、他人とは違うから、はみでて、困り、悩む。


その世界(世間とか他人でもいい)対自分(これも仲間達とかでもいい)。
なんて構図では、自分は世界に対して、アンチ。マイノリティー。そんなものになるわけだ。


で、「アンチだろうとマイノリティーだろうと、そんなのはどっちも主観でしかない」
というのが、ケラの創作に通底するテーマである。
というのが、前回のまとめ。
はい、ついてきてますか?ここまではまだ、おさらいですよ。


例。

ウソもムダも全部つめこんで 今日もアソコに行こう
良しも悪しもクソもないじゃないか 今日もアソコへ行こう
(中略)
”ブチコワセ”なんてコトバ ブチコワシて 今日もアソコへ行こう
(Sの終わり)

のように、そのことを直接示す歌詞が、有頂天には多く見られます。


ちなみに、これはケラがオリジネイターな発想ではなくて、80年代当時のニューウェーブと呼ばれる音楽に広く見られる思想だった。
ただ、これを暗喩ではなくて直接表現し、なおかつ音楽的にも思想的にも噛み砕いて表現したのは、日本ではケラが最初だろう。
(この辺あいまい。ただ、こんなん調査してたら、本が一冊書けると思う。)


で、有頂天および劇団健康を解散したケラは、直喩から暗喩へと主張の方法を変えてゆく。
それが、「まあ多分日本一有名なナンセンス劇団」ナイロン100℃と「テクノ経由ポップス航路バンド」ロングバケーションという活動だと。


このとき、ケラが考えていたのは、
「声高な主張は消費されていくものだけど、架空の創作に込めた現実の齟齬は決して消えない傷になるじゃろう。世界がゆがんで見える傷。うまく言えないけど、そばにある気がする傷。
その架空が緻密であればあるほど、ちょっとした、それこそギャグにしか思えないような傷が、気になって仕方ないんじゃよ。
わし、そういうの好きじゃわい。緻密に作りこむのって面白そうだしのう。ふぉふぉふぉ」
ということだったんじゃないか、と想像する。(口調もだよ)


参考資料になるインタビュー記事が今手元にないけども、この当時のケラは「ナイロンはポップも、ナンセンスもやる。それはさらなる実験。」という趣旨のことを、盛んに言っていた。
それは、主張であることを回避する、ニューウェーブのさらに一歩先の方法の提示であり、同時に常に挑戦的な創作環境に身をおく、という宣言であったんじゃないかなぁ。
自信はないよ。


で、やっとたどり着いた。「消失」の地点ではどうなっていたのか、という話。
ナイロン・ロングバケーションを始めた時のケラの意気込みは、現実的なアレとかソレで挫折してしまった。
勝手に結論する。挫折した。
詳しくは知らないけどね。戯曲集「すべての犬は天国へ行く」のあとがきなどから、その一端が垣間見れるよ。


けれど、その挫折を越えて、どんなものも主観でしかない世界で、それでも生きていく方法というもの。
「消失」で、ケラはそれを書こうとしていたんだ、と俺は思う。


世界から自分ははみ出している。
それを主張する。
それを利用して誰もがそれぞれはみ出している世界を戯画化する。
その戯画をベースに、そこで生まれる希望とか、なんかそんなはみ出したもの同士の、分かり合えないままの、付き合い方を探す。


そんなところまで来た。それが「消失」という芝居だった。


とまあ、抽象的なままで、長い話はおしまい。
しかし、「消失」でそこまでたどり着いちゃったから、変わり続ける人、ケラは次の芝居じゃ、また全然違うものを創ってるんだろーけど。