どうしたの、屏風のタイガー・リリー?

君が読むまで同じ話をやめません。ちなみに君が誰なのかは当blog最大のネタバレなので、筆者には内緒にしてください。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


昔の人が想像した近未来の人はうまいこと言ったものです。「それでも、どうしても愛しあうことだけはやめられないんだ。((C)プラネテス)」ところがちょっとややこしいことに、愛したからといって愛されるとは限らない資本主義下近代のミッドナイトです
「じゃあ誰もが誰か愛し愛されて生きるにはどうすりゃいいのさ!と悩めるぼくらの未来はどっちだ」が今夜のテーマということになりまして、私としては結論はもちろん「未来とかどーでもいー」に決まっています。未来の血が何色だろうと切って捨てる勇気。word:勇気がディフェンスに定評があるおかげで、あんなにトガッていた信念がほらこんなに丸く。
そりゃ未来が楽しいなら楽しいほうがいい。だって楽しいってことは楽しいわけで、楽しくないのは嫌だし、楽しいければ楽しいわけだからきっと楽しいし、楽しめるなら楽しんだほうがいい。ことほど左様に「楽しいほうがいい」という信念は何一つはっきりとさせてくれない。なんだ楽しいって。新手の病気か。
信念には屁理屈が足りないんじゃないかと思う。「こうだったらいいのにな」を追求するばっかじゃなくて、頓知利かせてよ信念。シンネンさーんツイッキュウどのー慌てない慌てない一呼吸一正拳。積み重ねた時間が夢を裏切るかどうかはやってみないとわからないぞよ。では将軍様、おまえの虎を屏風から出してやろうか!そこで今回紹介するオープン信念webサービス"屏風.in"はそんなあなたの理想のモチを絵に描くことのできる画期的なツールだ。導入は簡単。絵に描いた後、額にいれて飾っておけばいいのだ。和尚さんも騙されること間違いなし。しかし、そこはさすがの和尚さん。罰として飢えた虎と一緒に檻に閉じ込められてしまったぞ。しかし一週間後、そこにはまったく懲りずに元気にはしゃぐシンネンさんとツイッキュウさんの姿が!好き好き好き好き好き好き あーいーしてーるー♪この橋渡るべからずというのなら、歌だけが橋の向こうに届けばいいのです。でもその歌ちょっと曖昧すぎではないでしょうか。曖昧だから遠く飛ぶのが歌謡曲と意識ですが、愛は無節操に飛べばいいものでもありません。確かそうだった気持ちを確かめるために。未来はどーでもいーですが、未来には過去のこと思い出して欲しい。どんな未来へも渡れる頓知が具体性です。信念にも愛することにも具体性がなければ戯画でしかない。

私は、自分が何を考えているか、何を感じているかまるで解らなかったし、楽しい、悲しい、という感情に名前を振る事も上手く出来ていなかったと思う。たくさんたくさん本は読んでいたけど、本は文字と出来事の洪水で私はそれの蚊帳の外だった。「私の悲しい」と「本の悲しい」は違うから、私はだめな人間で冷たい人間だと思っていた。「悲しい」にも色々種類があったり「私の悲しい」も存在する事が解ったのは、文を書くにつれ、自分がこういう時にこう考えたと言うことを、少しでも記憶してパターンがあることが解ってからだ。解って、パターンが出来ていった。
http://d.hatena.ne.jp/./nitino/20080925

少し昔話をしましょう。生まれてこのかた性病でなかったことなど一切ない俺は、性病と同時に横着な子供だった。なので「私の悲しい」を「本の悲しい」から適当に見繕って、そういう風にできているのだんぁと考えた結果、考えないように生きてきました。そして気がつけばこんなにも死体な性病です。


愛は囲炉裏だ。ぼくは囲炉る。ぼくは、ぼくの周りのものをなんとかもうちょっと暖かくして明るくしていきたいと願う。だからぼくはblogを書くことにした。
愛するものに囲みながら、愛するものを囲むことができますように。
いつかきっと屏風に描かれたようになれますように。
屏風に描かれたものを、屏風に描かれたように、屏風に描けますように。


愛されるには病原体が多すぎる俺でも、愛するものをどこまでもblogに書くことはできるんじゃないだろうか?筆が走りすぎて愛するものとはまったく別物になってしまうほどのblogとは愛しあうことはできるんじゃないか?

愛を伝えるときに「愛してる」としか言えない人を、バッカじゃなかろうかと思う。それが死体性病の信念です。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

死体性病は『とらドラっ!』を愛しています。

動機について私が知っている二、三の事柄

何度でも同じ話をします。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

実に実におもしろかったです。

「たぶんツンデレについてここまで考えつづけた人間は世界でも珍しいだろうね。君はこの作者の創作姿勢についてどう思うかね」
「頭がおかしいんじゃないですか」
「そうだろうね」
『百舌谷さん逆上する(1)』(篠房六郎、講談社アフタヌーンKC) - イン殺 - xx


インターネットでレビューを書いている皆様に感謝しています。私は皆様に鑑賞の方法を教えていただいたのですから。

ぶっちゃけ、本とか読むときってアタマ使わなくねースカ?じゃないスカ?フランクな物言いなので嵐のように共感を得ること間違いなしだと思いますが、まああのほら、嘘です。JAROには内緒にしておいてください。正確には、アタマは使ったり使わなかったりするものです。オンオフですよオンオフ。ワックスオーン!ワックスオーフ!あんなに貧弱だったボウヤが、みるみるカラテマスターに!!でもJAROにチクるのだけは勘弁な!!

アタマを使うと「その表現はちょっと誇張の夢入ってない?妥当じゃなくなくない?」とか「そういうの妥当と思って感動しちゃうってか。平面レイプがピョンピョコリーンってか。ド腐れ根性は島宇宙でドッコイ生きてればいいのに」とかいうことになっちゃう。いや只今の発言はビタイチアタマ使ってない感じですけども。アタマ使ったのにアタマ使ってない感じではないかと危惧しておるわけです。もったいない!アタマがもったいないよ!上手に大義名分が立ちましたら拍手のほどをお願いします。


表現には表現の都合というものがあります。文章は言語で書かれ、プログラムはプログラミング言語で書かれます。俳句の形は五七五。絵画は見えなくてはならず、音楽は聞こえなくてはならない。落語では右を向いたら八っつぁんで、左を向いたらご隠居です。それぞれ例外ございましょうが、都合あっての逸脱です。

もうちょっと即物的でないところ、キャラクター溢れ物語流れる地にも、表現には表現の都合=「お約束」ていうのに基づいています。記号ですよ記号。地の文で「女は死んだ」と書かれてたら、女が死んだことにしてくれないと、探偵困っちゃう。フニフニフニフニ。うるさいよ。
しかししかし同じ記号でも使い道が全然別、も、真逆の真裏だったりするので注意しなくちゃです。「男は悲しくなった」て書かれてたらそりゃ男は悲しくなったんでしょうが、「男の悲しみを表現したい」「悲しくなる男の独りよがりを表現したい」「男を悲しくさせるような社会の構造を表現したい」。動機はさまざまであるわけです。


なんかウィットに富んだ例とか出てこなくてすいません。まとめまると、こうです。

  • 鑑賞の方法
    1. 表現がそのまんまおもしろかったりかっこよかったりするか = ベタ
    2. 表現に用いられる記号が妥当か否か = メタ
    3. この記号でこの表現がされた動機はなんなのか = ネタ


アタマ使わないと、これがごちゃ混ぜになって鑑賞してしまうわけなのです。そんでそんでなかなか3の鑑賞はしなかったりします。俺の経験から言うと。だって『キン肉マン』読んでも「ほふーん。これんなかではこーいうお約束になっておるのね」とかっつってうなずきながら読んでましたからね。そんでパロスペシャルは脱出不可能だと信じてました。ヤマちゃんのパロスペシャルは超人パワーが足りないから不完全なんだよ!あと舞空術はありえないけどかめはめ波はがんばればできる。それが手前共のリアル。(クリエイティブ・コモンズに基づいて使用しています)


ほんで3の「動機はなんなのか = ネタ」ですけども、これネタと言ってしまうのはなんで?っていうと、その動機を考えるていう鑑賞の方法、それ自体がひとつの表現行為ではないかーないのかーないではないかーと思うからです。ハイここで女中まわりまーす(クルクル)なまはげ入りまーす(バシュー)「ないではない子はいねかー!!」
作者の動機なんかほんとは知ったこっちゃないのですが、それ考えてみると表現を鑑賞した上で表現までできるすごい一粒で二度おいしい。逆に表現ばっかしちゃうと鑑賞できないですけども。みなさんがレビューをしてくれたおかげで、そういうことを無意識でなくて理解できました。カラダではなくココロで?ハートで?タマシイで?何がなんだかちょっとよく分かりませんけども、そんな感じ。


キャラクターが心震わせることはよくありますけども、そのキャラクターを作った作者の動機にだって心震えることはあるのです。
その心意気はみなさんが勝手に表現したものですけど、勝手に表現したらいろんなもの好きになれるなら、勝手にどんどん表現していけばいいじゃない。


そんでもってほんでもって、『とらドラ!』です。ようやく!ワタシは帰ってきた!

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


おもしろかったです。ダメだダメだそれで終わっちゃ。
えと、『とらドラ!』を、てゆかライトノベル?みたいのを、2のとこで「しょせんオコチャマ向けなんでしょー」て思っちゃうといけない。それは罠ですよ!上の画像であるところの最新刊で明確になるのですけども、『とらドラ!』は3のことを登場人物が思い悩む話なのです。「あー俺らが毎日楽しいのは、みんなでつらいこと見ないよーにしてるからだよなー。でもそれって嫌だなー。だって俺変わりたいし、無理に変わらないようにしてるのは変わりたいのとか変わらなきゃなことを無視してるヒドいことなんだからさー」とかなんとか、そういう話なのですよ!
そういうのてほら『涼宮ハルヒの〜〜』さんとかアレとかコレとか、メタな記号を作品内に織り込んで表現するのがトレンドっぽかったりもするわけですけども、『とらドラ!』はそういうこと一切やんない。やんないのにバンバン表現してる。そんでベタにラブコメとしても超おもしろいおもしろい。ベタでもメタでもネタでも安心。すごいテクニックだぜー。



ノー根拠で断言しますが、表現の動機には「じゃああんた何が表現できるの」ていうテクニックがツキモノだったりしまして、動機とテクニックがうまく絡んでないときはちょっとがっかりしたりするものです。ちょっと言い方濁してみましたけども。

みなさんが勝手に表現する動機だってテクニックがなきゃ一本筋が通りません。だったらじゃあどうすればいいの?って言われても、俺だってテクニックなんかないですからアレですけど、自分の使ってるテクニックがどういうもので、それって人からはどういう動機に見えるんだろう、って考えてみたらいいんじゃないかと思います。したら自分ていう表現がナンダカ楽しくなっちゃう。

んでもって今度こそ断言しますが、『とらドラ!』を読むと動機とテクニックががっつり絡みあってて幸せな気持ちになれます。だからみなさんも読めばいい。読めばいいのです。

あの娘ぼくが同じことなのに違った表現をしたらどんな顔するだろう?

読んだ本を紹介します。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

実におもしろかったです。


ところで、紹介するからには「おもしろかったよねー」「だよねー」では片づきません。だって紹介する相手ってのは読んでないわけですから「ねー」じゃすまない。おもしろい、はまったくとんだ役立たずです。でもじゃあどないして紹介すんの?ってなりましたら、「何が」「どう」おもしろいかを説明しなくちゃになるわけです。うまーいこと言って。うまーいこと言って。言いたいことなので2回言いました。バックコーラス風に言いました。山彦風に言いました。大事なことなので別の言い方をしました。

笑いの大前提は、知らないことに現実感を感じることだよ。でも、まったく知らないわけわからないことじゃなくて、現実感を感じるには、ちょっと知らなきゃいけない。知らないのにちょっと知ってるものなんだよ。
http://d.hatena.ne.jp/./norishiro7/20080730/1217399493

「面白いフィクションは大抵が現実のパクリです」
「そして現実のパクリだからこそ現実の読者が楽しめる、と」
「パクリは面白さに必要な要素」/全世界が感動する超メジャー作品『現実』 - ピアノ・ファイア


おもしろいってどういうことかっていうのとか俺がおもしろいのは誰かもおもしろいのかっていうのとかちょっとよくわかりませんので、人の見解を拝借します。別の言い方をすると、おもしろいというのは「あーそういうのあるあるー」てなることなんだそうです。知ってた俺知ってたよ。
そんでこれから、だいぶ別の言い方をします。した結果、ほとんど逆の結論になりますが、気にするな。そんなことは些事だ。

Q 何故オタはお約束の展開に説得力があると手を叩いて喜びますか? A昔、犬と本気になって遊んでたパブロフっておっさんがいてね…

現実っていうのがそこらに売るほどあるのは既に常識ですが、現実には誰も現実なんて買いません。なぜなんだい?チャーリー・ブラウン、なぜなんだい?あれ?これチャーリー・ブラウンじゃないな。なかやまきんに君だ。ねえ、なぜなんだい?ってこれは草野仁!そっちは寺門ジモン!……なんてことだ。筋肉自慢が3人集まってしまったじゃないか。とりあえず釘を刺しておこうあのすいませ(プシュー)こいつら筋肉自慢じゃない!ただの風船だ!風船の中から、チャーリー・ブラックとチャーリー・ホワイトが出てきたのでみんなで一緒にチャリティーでブラブラしてきた。今ちょっと現実にこの文章書くのに飽きてきたわけですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか?

まあ現実がほんとはいくつあるかは別として、みなさんの現実の捉え方のがもっとある。いっぱいある。それ全部あわせて玉にしたら、現実より大きくてすごいよ絶対。そしてそれがインターネットなのさ!!ごめんつい手ぇ抜いた。

そんじゃ今度は現実があって、そん中が知ってることと知らないことに分けられると考えてみようよ。ちょっと考えてみよう。そんときみなさんの知ってることと他の誰かさんの知ってることが逆だったりすることもあるかもしれない。知ってることってか知ってるつもりのことね。待て。徳光はよせ。


こんな風に、現実ひとつ取っても捉え方っていろいろあるんですよーって感じが伝わってるといいないいんですけどもそんじゃあみなさんが現実をくらべっこするとき、どうすんの?ってなると現実をそのままお届けするやり方はちょっとよく分かりませんから、代わりのものを使います。俺がくそめんどくさくなりながら、今キーボードを打ってるみたく。そう、言葉で。他の表現だってありますけど、それは俺に言うなよ。きみがやれよ。

言葉のいいところは、現実も表現できるし同じやり方で現実じゃないものも表現できるところです。だから現実と現実じゃないものが簡単に混じって、ほんとうになれる。怒られてるときに、(バッカじゃねーのー)って思いながら「ごめんなさい」って言えば、「ごめんなさい」がほんとうになるわけです。嘘です。そんな都合いいことありません。
ほんとうになるには、ほんとうらしさが必要です。

ほんとうらしさがあるのはどこですか?あなたの、心です。今俺はとてもかっこいいことを言ったわけですけども、ほんとうらしさはらしさなので現実みたいに一応どっかにあることになってたりはしないわけなんですね。じゃあそれはどうにかしてください。みなさんの力が必要です。今俺はとてもかっこいいことを言ったわけですけども。
でも、ほんとうらしさはほんとうじゃないので、なかなか心に届いたりしません。そうすっと、あんまりおもしろくないっぽい。うん多分。なんかそんな感じ。
ほんとうらしくないとほんとうじゃなくて、ほんとうじゃないとおもしろくない。そういう風にできているのです。

まとめ

  • ほんとう→おもしろい
  • ほんとうらしい=ほんとうじゃない→おもしろくない

したらどうしたらいいのって話ですが、ここだけの話、みなさんには想像力があります。あるんですってよ。
あるのはあるんですが、どんなものかはちょっとよく分かんないです。あれ?いいや。想像力はちょっとおいといて。あれなんかちらかってる。あれー。想像力どっかいった。どこやったっけ。あれ。本が山積みでわかんないよ。混ざっちゃった。片付けよう。おもしろいのとおもしろくないので分けよう。あとほんとうとほんとうらしいので分けよう。あれだね。宿題やってると急に部屋片付けたくなったりとか、あるよね。うふふ。うわこれ終わるのかな。終わんないんじゃないかな。混ざりっぱなしはやだけど、収納足りないしどんどん増えてくから、片付けても片付けても混ざってるのと同じことの気がするな。でも、片付けよう。片付けるんだ。だって誰かを部屋に呼んで見せびらかしたり、読みたいときに読みたいものを取り出したりできるように。えーと、これはあっちで。ここいらのはいったん押入れに。おいおいアスリートの箱だろ室伏兄妹は。いや池谷兄弟は筋肉自慢で。一茂か。一茂なぁ。専用の箱が必要だ。えーと、そんで。あ、これは……


とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


もう一度読みました。実におもしろかったです。

Folklore Producting Machine!!!! 『雲を掴んでしまった男』

龍頭


ある、海辺の村に二人の男が住んでいた。
三十を過ぎたばかりの眼窩深き男で、理知鋭く博学に秀でるも、己に負うところ厚く人と交わろうとしない男だった。数年前、役人の命で灯台を建てることになった折に人夫として雇われた。灯台が完成した後、なり手のいなかった灯台守の職に勧んで名乗りを上げ、そこに住みついた。雑穀などを買いに出る他は、海を睨んで暮らしていた。よそものを口さがなく噂する声を聞かずに済む程には、灯台は高かった。
もう一人は年のころまもなく二十といった、優しげな目の若者であった。応情に富み、蛍雪の夜も空気を読むこと絶やさず、村人によく好かれる男だった。
若者は、灯台のある岬近くでよく釣りをした。心根の優しい若者は、村人から悩み――その実は悩みともつかぬような愚痴を、持ちかけられることがよくあった。若者は笑みながら頷き、時に促し、時に問いながら、相手の気のすむまで話を聞く。どんな話も否定をしない若者に、村人たちは心を預けた。若者にとっても、心を許されるのは嬉しいことだった。しかし、ふとした時に若者は言いようのない淋しさを覚えることがあった。空を見上げたときのような。
そんなときは、たいした魚も釣れず、村人のあまり来ない岬で一人、釣り糸を垂らした。漠然と、このままここで死んでいくのだ。と考えた。しかし、考えを言葉にする術を知らなかった。


若者が釣りをする場所から離れたところで、眼窩深き男も時折釣りをした。男は若者に話しかけなかったので、若者も黙っていたが、ある日若者のほうから声をかけた。


「釣れますか?」
「いや。一度も釣れたことがない」
「はて。魚篭には魚があるようですが……」
「魚を釣っているのではない。百年を釣っているのだ」
「百年…?というとあれですかい。百年生きる亀でも釣っているんで?」
「そうではない。比喩だ」


男はその鋭き眼を、若者に胡乱そうに向ける。
「百年経ても褪せぬような物語を釣っているのだ」

何を言っているのかさっぱり分からなかったので、若者はとりあえず頷いた。そうして改めて考えて、「言葉の意味はよくわからんが、なんだかひどく羨ましいものだ」と思った。




二人はしばしば言葉を交わすようになった。

眼窩深き男は、"ものかき"をしている、と語った。
話や邪なるものを招く眼を抱えながらも、善き人たろうとする男の話。
森羅万象あらゆるに対してこれを許さぬとする娘の話。
神々にも似た異形の女たちと契りを結び、偏見からくる迫害から家族を守らんとする子供の話。
そのようなありえぬ"こと"を、ありうべく"もの"にする。それが"ものかき"の仕事である、という。


「なんだかわからぬ、という顔をしているな。そうだな、お主のその"なんだかわからぬ"という気持ちを誰かに語るとしよう。しかるにただ"なんだかわからぬ"と言っても、それは伝わらない。お主が"わからぬ"ということは伝わっても、"どうわからぬ"のか、"何故わからぬ"のか、というのは、"なんだかわからぬ"という言葉では語れない。どこにもない"こと"なのだ。それでも、気持ちを伝えようと欲するなら、<この気持ちはあれに似ている>、<例えばこうしたときに抱く気持ちに近い>、<これなる者がこのようなしきたりに則っているのであるが、その場合は気持ちもこのように変わるであろう>などと、喩えにしたほうが伝わり易い。いや、喩えでなくては、伝わらない"こと"だってあるだろう。喩えは、此方には存在しない虚ろな"こと"だが、言葉によって現れる"もの"だ。"もの"を語る言葉、すなわち、物語、となるわけだ」


若者には、眼窩深き男の話は曖昧に過ぎてうまく分からなかった。しかし、若者には曖昧にしか思えぬ考えだが、男にとってはしっかりした確かなものなのだな、と話し振りから思われた。男はまるで、空を流れる雲をその手に掴んでいるようで――――若者は、「ああ俺もこんな風になりたいな」と思う。「この人のような言葉を使いこなすことに、俺は憧れている。そうしたら、村の衆にもっと俺の考えていることを伝えられるかもしれない。……そうなると俺は、これまでのようにうんうんとただ頷いている俺ではありえず、もしかしたら疎まれることになってしまうのではないか。こんな言葉は、村で使われている言葉とはあまりにも違う。実際、俺だって、この人が何を言っているのか半分も分からない。ああ、だが、それでもこれまでより、ましだ。ずっと、ましだ。うまく言えない気持ちを抱えて一人でいるくらいならば、俺は言葉が欲しい言葉が欲しい言葉が欲しい、のであるから」


こうした考えを若者はうまく言うことができなかったので、頷いてこう言った。「格好いいですねえ」
眼窩深き男は若者を見て、笑った。まったくおもしろくなさそうに、息だけで笑った。そして興味を失ったかのように、目を海に戻した。




若者は男から書を借り、物語を読んだ。物語によって考えの語り方を覚え、考え方を変えられ、時にはわからなかったことがもっとわからなくなった。若者は物語への感想を、少しずつ男に語った。男は相変わらず、おもしろくなさそうに海を眺めてそれを聞いた。若者がなんとか話し終えると、その視点を覆すような形での感想を男は語った。その度若者は、男の見識に感心するのだった。
しかし村の人々と話すときの若者は、これまでと変わらぬ態度で聞き役に徹した。物語によって多くの考え方を知るほどに、何か意見を述べることをしなくなっていった。村の人々は「若者はなんとなく冷たくなったな」と感じたが、聞き上手に変わりはなかったので、これまで通りに相談を持ちかけた。
一人になって考えごとをやめたとき、若者はなんとも言いようのない寂しさを感じるようになった。その寂しさは、様々な言葉を知っているのに、どれも違うと感じた。そんな気分の時は、雲ひとつ無い空に白い残月が浮かんでいて、身震いした若者は書を手にとり物語に没頭するのだった。




若者がそろそろ家督を譲り受けようかという春の日に、眼窩深き男の姿が消えた。
理由の如何の前に、灯台守がいなくなっては番所咎められる、と騒ぎになった。若者が次の灯台守を名乗り出、受け入れられた。若者の両親は反対したが、筋道と誠意を込めて説き伏せられると、遂に両親も認め、年の離れた弟に家督を譲ると、若者は灯台に住むことになった。

その年、村はひどい凶作に襲われた。懸命に働いてなんとか凶作を乗り切ろうとし、村の人々は若者のことを徐々に忘れていった。若者の家族も忙しさに追われ、短い便りが届くと「ああ無事でやってるのだな」と思うのみで、それ以上気にかけなかった。
時折「あいつはどうしてるだろう」と話に上ると、「村はずれの岬で夜釣りをしているのを見た」「嵐の晩、灯台の明かりを修理していたそうだ」「浜辺で亀に話しかけていたらしい」といった噂が流れた。




冬を越え春になろうかという頃、若者の父親が灯台を訪れた。
数日おきに通っていた飛脚が足を痛めており、冬の間若者からの便りが途絶えていた。顔をあわせるのはほぼ1年ぶりになる。灯台に着くと、白髪の老人が座して居た。父親は尋ねた。


「私の息子がここで灯台守をしているのですが、どこにいるかご存知ありませんか?」
「信じられないかもしれないが、あなたの息子は私です」


と老人が言うので、父親は驚いた。白髪の老人は、己より年上にしか見えなかったからだ。
しかし、よくよく話を聞いてみると、息子本人でなければ知らないようなことをすらすらと応えた。


「もしや…お前なのか。いったいどうして、そんな姿になっちまったんだ」
「…………開けてはならない箱を開けて、雲を掴んでしまったのです」
「お前はいったい何をいっているんだ」


父親は訳がわからなかったが、仕方なしに老人を連れて村に戻った。老人の自分が灯台守の若者であるという主張は受け入れられたものの、しかし老人の姿になってしまった理由となると、用を得ない説明をするのみであった。村の人々は大層気味悪がったが、面白半分に「海の神の罰を受けたのだ」「魔物の女に精気を吸い取られたのだ」などと噂した。結局老人は灯台守の仕事に戻り、それを死ぬまで続けた。




灯台守の若者の年の離れた弟は、少し年長の村の子供衆が亀をいじめているのを見つけた。弟は、そんなことをしてはいけないと諭した。亀はいじめられなくなり、代わりに弟がいじめられた。

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スピンオフ フロム サッド・ナイン 『ブルー&ピンク』

なみだくん さよなら
さよなら なみだくん


あたしカナ。ジョシコーセーだよ。
カナってのはアダナ。本当はカナシミっていうの。「悲美」って書きますよ。すごくあたしっぽい、いい名前だと思う。お母さんはがんばった。えらい。妊娠をしたのもえらいと思う。妊娠はだって大変です。痛いし重い。すごい。お母さんはあたしの誇りですごい。
その時あたしは、居間でシュークリーム食べてて、「お母さんー紅茶飲みたーい」。そしたらお母さんが紅茶淹れてくれて、なんでかすごくジンときた。「あー幸せだなー」ってのを思った。だから、殺した。包丁で。グサグサッ。「やめてーっ」とか暴れるから、やめようかと思ったけど、あたしがんばったよ。
そんですごく悲しくて、泣いた。エーンウワーって泣いた。収集機のボトル、3個も満タンになったよ。最高記録。前カレをふった時でも、ビンの半分も溜まらなかったのに。お母さんがめちゃ血を出したから、それが混じっちゃって、ブルーとピンク。きれい。あたしの悲しみの色。でも収集の人が「純度イマイチですねー」だって。ムカつく。首とか胸を切らないようにしないとダメみたい。生物ちゃんと勉強しとけばよかった。
それから、うちを掃除した。審悲官の人も手伝ってくれたの。そしたらお父さんが帰ってきて、あたしの顔と審悲官の人を見て、「あー」って顔をして、よくわかんない顔をして、「悲しんでいいのか喜んでいいのか」って顔だった。たぶん。あたしも「やったよ」か「お母さん死んで悲しい」かどっちか分かんなくて、でもお父さんが泣いたのであたしも泣いた。審悲官の人が慌てて収集機を持ってきた。


お父さんが法的手続きをしてる間、「命と悲しみの大切さ」ってビデオを見た。ちゃんと悲しむために、ドラえもんを未来へ返したのびた君、えらい。のび太を殺さなかったジャイアンもえらい。そのほうがみんな悲しい。
それでその日からお父さんは毎日泣いてた。お酒も飲んで、あたしを殴った。あたしも「やめてー」って泣いた。けどあたしはちょっと誇らしかった。これであたしも自分の悲しみを自分で手に入れられるんだ。大人になった気がして、嬉しいよ。




それがいけなかったんだと思う。
お父さんは、あたしをレイプした。
首を絞めたり、タバコの火をあたしの体中に押しつけたり、あたしにイレながらあたしの髪の毛をバリカンで丸坊主にしながら、レイプした。あたしはすごく嫌だった。悲しめたら大人になれると思ったけど、こんなに悲しいのは嫌だった。痛いし。あたしは毎晩泣き叫んで、お父さんはその涙をちゃんと収集機で集めた。
こんなこと誰にも相談できなかった。だって、悲しくなることはいい事だし、お父さんはあたしの涙を集めてるから立派な大人で通ってて、あたしの気持ちは、「悲しむのが嫌だ」って気持ちは、誰にも分かってもらえないことなんだ。


あたしはウリを始める。
見知らぬ男の人に抱かれて、そのときの涙を売る。そういう仕事。
抱かれることに慣れるとだんだん悲しい気持ちを感じなくなって、涙が流れなくなって、お父さんは今度は自分が泣きながら、もっと強くあたしを求める。でもあたしはもう、お父さんの前では泣かない。河原で一人で泣いたりする。セーシュンぽく。
気がついたら、あたしは妊娠している。


産婦人科で検査を受けた帰り道、いつもの河原で夜空を見上げる。捨てられたジンコーエーセーがチカチカ光っていて、いろんなことを思い出して、胸が締め付けられたみたいに泣けてくる。
妊娠のことはまだ、お父さんには言っていない。
そしたら流れっぱなしだった涙が、いきなり吸涙ハンカチでぬぐわれた。運命みたいだと思った。
それが、ナミダとの出会い。


ナミダはホストだった。女の人を悲しませるのが仕事だったけど、あたしには優しい。
ナミダは言う。「自分の悲しみを自分で決められないなんて、生きてないのと一緒だよ」
あたしはナミダと付き合い始める。ウリはやめる。ウリ仲間でナミダの元カノのウツコに襲われたけど、ウザかったので殺した。


あたしはナミダとカケオチを企む。「自分達の悲しみを掴もう、カナ」
あたしは考える。妊娠4ヶ月の、堕胎期限ギリギリの、全然膨らまないお腹を抱えて、考える考える考える。
あたしは、ちょっと決断した。




「ただいま」
赤ん坊とお父さんが迎えてくれる。悲鳴と泣き声で。
お父さんはもうすっかり気が狂っていて、毎日お母さんの写真を抱えて泣いている。だからうちの家計は安心だ。今日もご苦労様、お父さん。
赤ん坊(苦太という名前なの)の頬の腫れと耳から出る膿は、ますますひどくなっていて、あたしは「ごめんね」と思いながら、煮えたぎったミルクを無理やり飲ませる。今日も元気だね、苦太。


カケオチはしなかった。
あたしは考えた。あたしがなんで悲しいのかを考えて、あたしが悲しいのがなんで嫌なのかを考えた。考えて考えて考えた。そんなのよくわかんない。でもきっと、人から与えられる悲しみはあたしのものじゃないんじゃないかな?よくわかんないけど。あたしはあたしの悲しみをちゃんとコントロールできなきゃダメじゃないかな?
じゃあいらないや。未来とか。
何があたしの悲しみ?何をして泣き出す?わからないまま終わる。そんなのは嫌だ。でも、何が待っているのかわかんない未来は、もっと嫌だ。あたしは諦める。これ以上、新しいものを諦める。
それがきっと、お母さんになるってことだよね。


妊娠8ヶ月まで待って、抱かれながら苦太のコトを報告すると、お父さんは自殺しようとした。あたしはちょっと迷ったけど、お父さんに死ぬことを許さなかった。手錠ってすごい便利。お父さんの悲しみは、ときどき枯れそうになるけど、そんな時も手錠が大活躍。ちょっとお母さんに似てる女を拉致して抱かせてお父さんの胸の中で殺すと、お父さんはたくさん泣く。「なんでなんでなななんでこんなことに」ちょっとだけ、笑っていいのか泣いていいのかって顔をしてから、他の全てを放り出してイッショウケンメー泣く。
苦太が生まれてからは、慣れない子育てでチョー大変だった。けどあたしはちゃんと学習して、直接の痛みより、熱さや痒さみたいな長く続く苦痛が赤ちゃんにはぴったりだって理解する。


とにかくあたしは2人の世話に毎日大変で、とても悲しくて、とてもハッピー。毎日ハッピー。
今日も「泣き声がうるさい」という隣りのババアを殺した。怒ってばかりのババアを殺しても、長いつきあいの審悲官の人は苦笑いするだけ。うまく泣けないヤツを殺しても文句は言わせない。




あたしは時々、ナミダと出会った川のほとりで、夜空をボーって見上げて泣く。月が泣き腫らした下瞼みたいに浮かんでいる。ちょっと前にバクダンで壊れちゃった月。そして、点滅するサッド・ナイン。あたしはあたしの悲しみを悲しんで泣く。
あたしはどんどん家族を守って、あたし以外の人を悲しませて、あたしの悲しみをちゃんとしていく。あたしの幸せをちゃんとしていく。一瞬だって後悔しないで、今を生きていく。ブルー&ピンクで生きていく。ブルーは涙の色。ピンクは血の色。涙と血が混じっちゃったら、あたし以外に価値がなくて、だからこれはあたしだけの悲しみ。誰にも譲れない悲しみ。ブルー&ピンクでいる限り、あたしはずっとあたしのまま。お母さんを殺せたときのあたしのまま。ステキな思い出がずっと続いていくんだもんね。


ピース\(≧▽≦)v

サッド・ナイン

「うわ泣ける。すっげ泣ける。かーなしーいなーおい。アレだよね。別に悲しくねーけど泣いちゃってそんでだんだん悲しくなるときってあるよねー、とか考えて気を紛らわせてたのに、ダメだ、きたビッグウェーブ、かか悲しい悲し過ぎて、ほんとなんだか悲しくてどんどん涙が出てきて、あれ?何だコレ?涙にしては、甘い。甘ぇよ。んで臭い。甘いのに臭いって、新感覚だわー。あ、しかも色が青い。なんだコレ?……変だな…いつの間にか悲しくない…」

人類は悲しみを物質化することに成功した。


なぜかって?聞かれても困る。ある日気がついたら、悲しい時涙ではなく青色の液体が流れるようになっていた。そういうことになっていたのだ。
理由が必要なら、以下のどれかで納得するか、神秘と寓意に満ちた分子科学のパズルを解いてみればいい。クロスワードパズルよりは長く遊べるだろう。

  • 理由1::神様がようやくメジャーver.upを実装したから
  • 理由2::日本の高名な魔術師・一休師による呪い、『Eye of the Tiger in Pertition』
  • 理由3::夢はいつか必ず叶うし、涙は未来への力になる。そう信じる心に適応進化したので。
  • 理由4::だって、思いついたから。


ともあれ、物質化した悲しみから目糞/まつ毛/ほこり、などを取り除いたものが、汎用甘味料『青色九号』となる。
誤解を招かないために先に断っておくと、地球人類が滅亡した原因が、この『青色九号』である。





フィクションであったなら、『悲しみの結晶によって人類は衰退しました』というのは、なかなか愉快な思いつきと言えるだろう。悲しみが人類に固有のものだとは聞いたことがないので分からないが、人類は悲しみを止める術を発見していなかった。
だから"「生きることは悲しみに満ちている」"と決めておくのは、人類を工学的に扱うために有用だったんだろう。
『青色九号』を用いた食物は胸がいっぱいになるような満腹感をもたらし、また気化した『青色九号』の燃焼効率は高く、大気への影響が「どことなくアンニュイな気分」になるに過ぎなかったため、人類の食糧・エネルギー問題は、一挙に解決した。
"「生きることは悲しみに満ちている」"ならば、"「悲しんでいれば生きていける」"ようになればいい。
進化が"利己的"かものならば、そうなってしまうこともあるんだろう。
そうして、人類は発展する。
何の不安もなく、青い涙を流しているだけで。


『青色九号』は金に代わって、通貨を保証する資本となった。
それまでの文明と『青色九号』に基づく文明は、本来相容れないものだっ(端末のメモリ容量不足のため、表示できません)


エンターテイメント産業は基幹産業となり、効率よく悲しませるための手法が工業化された。
そのことを悲しむ者もまた、『青色九号』の生産に貢献した。怒り/恐れ/妬みといった感情は"悲しみの未分化な状態"と見做され、楽しみ/喜び/笑いは大きな悲しみの前兆として働いた。
悲しみ以外の感情から流れる『青色九号』は、その純度が加工に適(端末のメモリ容量不足のため、表示できません)


『青色九号』排出量の個人差は、明確に差別の要因になった。悲しむことに恥じらいを持つ一部の人類を『禁治産者』とする空気が生まれた。
しかし、キメラ化した文明は差別を表面化しない。『禁治産者』を養うに充分な余裕があるのだった。悲しみの疲れを癒す娯楽として許容された。『禁治産者』本人の思いがどうであれ。
悲しむことができない『禁治産者』を、悲しむことのできる人類は理解しない。『禁治産者』はマイノリティだった。そして、マイノリティの違和感はフィクションにうってつけだ。『禁治産者』の悲しめなさは、小説となり、映画となり、歌となり、数多の人類を悲しませた。そして『禁治産者』自身も、「我々は悲しんでいるのだ」と規定することに慣れ(端末のメモリ容量不足のため、表示できません)


変化が始まっていた。
教育過程に挫折と喪失が計画された。母は子供を無視し、父は子供を叱る。教師は出席番号順にイジメを行う。やがて子供たちは、泣き叫んで自己主張したときのみ、可愛がられることに気づく。子供たちはわがままな王様になっていく。やまない雨がないように、悲しんだあとは必ず望みが叶う。その条件が繰り返し刷り込まれる。
挫折と喪失は周到に準備される。
子供達の未来に(端末のメモリ容量不足のため、表示できません)


あらかじめ予定された挫折と喪失を経て、子供たちは大人になる。
"『今この瞬間の感情に素直になること』『その感情が未来には失われ、思い出になること』『過去の思い出に感情移入すること』"を学んで。


子供たちは『青色九号』の優秀な生産者であったので、世界的に多産が進行した。食糧資源には問題がなかったが、空間が不足し始めた。
一方、労働によって自己実現を図る人類は一定数いた。その数はただ社会を安定させるよりは少しだけ多く、発展すべきフロンティアが求められていた。
学術的好奇心は採算を度外視して突き詰めることが可能となった。しかし近い将来に、鉱物資源が不足していくことが予想されていた。


多くの要因が交差して、宇宙進出の実現が人類共通の夢となった。まもなく夢は現実となった。『青色九号』の燃費と扱い易さは、宇宙航行に理想的だった。充分な人員が『青色九号』を補給し続ければ、恒星系間の移動も可能という試算が出た。その下準備として、火星軌道上での資源採集ステーション『SAD-9』が計画された。まず中継補給基地が月面(端末のメモリ容量不足のため、表示できません)


人類の夢が叶い、人類の衰退が始まる。


『青色九号』の生産量がわずかづつ減少を始める。当初は宇宙開発事業による消費の拡大が原因かと思われたが、調査の結果、もっと以前から減少傾向が続いていたことが判った。


何が原因だったのか?
結論から言おう。もうこれ以上、悲しむことがなかったのだ。
『青色九号』に支えられた社会は、人に優しい社会だった。満ち足りていた、と言い換えてもいい。そこには欲望が希薄だった。欲望という通貨がなくても、『青色九号』があった。
「欲望を禁じられることで悲劇が生まれる」、という"物語"が、『青色九号』以降の世代にはピンと来ないのだった。
「"生理的嫌悪感"と"嬉びも悲しみもないことへの喪失感"が、悲しみの中心にある」と兼業アルファ哲学者(普段は自宅警備員を営む)は自身のblogに記したが、もしその言葉に幾許かの正しさを認めるならば、その種の悲しみは長続きせず、いつのまにか忘れてしまうもので、『青色九号』を安定供給するには足りなかった。


『青色九号』資本下における"悲しみのインフレ"という事態は、挫折と喪失の格好の舞台として未だ残っていた、企業体および政府機関に動揺をもたらした。その頃、民間では「幸福の不法投棄」がブームとなった。何者にも変えがたい大切なものを捨てることは、すばらしい行為とされていた。美徳が強制となり、政治に組み込まれる(端末のメモリ容量不足のため、表示できません)


悲しむために、人類は夢を諦めることにした。
『SAD-9』はその乗員も含めて地球から放棄された。


夜空は悲しみの象徴になった。
夜空を見上げるたびに、夜の色によく似た蒼黒の涙を流した。


もちろん、そんなことでは『青色九号』は足りなかった。






その後の戦争の世紀についてはよく分かっていない。
大規模な"青色核爆発"が数回、『SAD-9』から観測できた。以降、地球での人類の活動と思える観測結果は得られていない。


『SAD-9』に残された人々は、今もそこで暮らしている。
地球に帰ることはできない。星間航行手段を奪われており、燃料も十分ではない。それに、地球が生存に耐えうる環境を保っているとは限らない。


いや、それらは全て言い訳なのだった。
「地球を失った」という喪失感。頼りない宇宙で一人ぼっちであることの孤独。そして、どこにももう行き場所がない不安。
それらが引き起こす悲しみは、『SAD-9』に莫大な『青色九号』をもたらしている。
人類はもう、それを手放すことができないのだった。


『SAD-9』の人類は、宇宙にぷかぷか浮かびながら、めそめそ泣いて、今日も生きている。


「変な小説。SFっぽい。よくわかんねーなこういうの。もっとリアルで泣ける話がよかったなー。他ないかな他。あ、やっべ。ケータイの充電切れそう。暇潰せないじゃーん。あーあ。つまんねーの。我に返っちゃうとマジへこむから嫌なんだよ。何してんだろ俺。あーあ。や。いや。でも、がんばんねーと。がんばんねーと絶対。いつか今がいい思い出だって思えるように。なぁ。悲しいこともあったけど、幸せだったよ。って。思い出ってそういうもんだし。うん。がんばろう。あれ?俺ちょっと泣きそう?あーアクビでそうだったんだアクビ。それで…、ん?あれ?この涙、……青くね?」