どうしたの、屏風のタイガー・リリー?

君が読むまで同じ話をやめません。ちなみに君が誰なのかは当blog最大のネタバレなので、筆者には内緒にしてください。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


昔の人が想像した近未来の人はうまいこと言ったものです。「それでも、どうしても愛しあうことだけはやめられないんだ。((C)プラネテス)」ところがちょっとややこしいことに、愛したからといって愛されるとは限らない資本主義下近代のミッドナイトです
「じゃあ誰もが誰か愛し愛されて生きるにはどうすりゃいいのさ!と悩めるぼくらの未来はどっちだ」が今夜のテーマということになりまして、私としては結論はもちろん「未来とかどーでもいー」に決まっています。未来の血が何色だろうと切って捨てる勇気。word:勇気がディフェンスに定評があるおかげで、あんなにトガッていた信念がほらこんなに丸く。
そりゃ未来が楽しいなら楽しいほうがいい。だって楽しいってことは楽しいわけで、楽しくないのは嫌だし、楽しいければ楽しいわけだからきっと楽しいし、楽しめるなら楽しんだほうがいい。ことほど左様に「楽しいほうがいい」という信念は何一つはっきりとさせてくれない。なんだ楽しいって。新手の病気か。
信念には屁理屈が足りないんじゃないかと思う。「こうだったらいいのにな」を追求するばっかじゃなくて、頓知利かせてよ信念。シンネンさーんツイッキュウどのー慌てない慌てない一呼吸一正拳。積み重ねた時間が夢を裏切るかどうかはやってみないとわからないぞよ。では将軍様、おまえの虎を屏風から出してやろうか!そこで今回紹介するオープン信念webサービス"屏風.in"はそんなあなたの理想のモチを絵に描くことのできる画期的なツールだ。導入は簡単。絵に描いた後、額にいれて飾っておけばいいのだ。和尚さんも騙されること間違いなし。しかし、そこはさすがの和尚さん。罰として飢えた虎と一緒に檻に閉じ込められてしまったぞ。しかし一週間後、そこにはまったく懲りずに元気にはしゃぐシンネンさんとツイッキュウさんの姿が!好き好き好き好き好き好き あーいーしてーるー♪この橋渡るべからずというのなら、歌だけが橋の向こうに届けばいいのです。でもその歌ちょっと曖昧すぎではないでしょうか。曖昧だから遠く飛ぶのが歌謡曲と意識ですが、愛は無節操に飛べばいいものでもありません。確かそうだった気持ちを確かめるために。未来はどーでもいーですが、未来には過去のこと思い出して欲しい。どんな未来へも渡れる頓知が具体性です。信念にも愛することにも具体性がなければ戯画でしかない。

私は、自分が何を考えているか、何を感じているかまるで解らなかったし、楽しい、悲しい、という感情に名前を振る事も上手く出来ていなかったと思う。たくさんたくさん本は読んでいたけど、本は文字と出来事の洪水で私はそれの蚊帳の外だった。「私の悲しい」と「本の悲しい」は違うから、私はだめな人間で冷たい人間だと思っていた。「悲しい」にも色々種類があったり「私の悲しい」も存在する事が解ったのは、文を書くにつれ、自分がこういう時にこう考えたと言うことを、少しでも記憶してパターンがあることが解ってからだ。解って、パターンが出来ていった。
http://d.hatena.ne.jp/./nitino/20080925

少し昔話をしましょう。生まれてこのかた性病でなかったことなど一切ない俺は、性病と同時に横着な子供だった。なので「私の悲しい」を「本の悲しい」から適当に見繕って、そういう風にできているのだんぁと考えた結果、考えないように生きてきました。そして気がつけばこんなにも死体な性病です。


愛は囲炉裏だ。ぼくは囲炉る。ぼくは、ぼくの周りのものをなんとかもうちょっと暖かくして明るくしていきたいと願う。だからぼくはblogを書くことにした。
愛するものに囲みながら、愛するものを囲むことができますように。
いつかきっと屏風に描かれたようになれますように。
屏風に描かれたものを、屏風に描かれたように、屏風に描けますように。


愛されるには病原体が多すぎる俺でも、愛するものをどこまでもblogに書くことはできるんじゃないだろうか?筆が走りすぎて愛するものとはまったく別物になってしまうほどのblogとは愛しあうことはできるんじゃないか?

愛を伝えるときに「愛してる」としか言えない人を、バッカじゃなかろうかと思う。それが死体性病の信念です。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

死体性病は『とらドラっ!』を愛しています。