動機について私が知っている二、三の事柄

何度でも同じ話をします。

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

実に実におもしろかったです。

「たぶんツンデレについてここまで考えつづけた人間は世界でも珍しいだろうね。君はこの作者の創作姿勢についてどう思うかね」
「頭がおかしいんじゃないですか」
「そうだろうね」
『百舌谷さん逆上する(1)』(篠房六郎、講談社アフタヌーンKC) - イン殺 - xx


インターネットでレビューを書いている皆様に感謝しています。私は皆様に鑑賞の方法を教えていただいたのですから。

ぶっちゃけ、本とか読むときってアタマ使わなくねースカ?じゃないスカ?フランクな物言いなので嵐のように共感を得ること間違いなしだと思いますが、まああのほら、嘘です。JAROには内緒にしておいてください。正確には、アタマは使ったり使わなかったりするものです。オンオフですよオンオフ。ワックスオーン!ワックスオーフ!あんなに貧弱だったボウヤが、みるみるカラテマスターに!!でもJAROにチクるのだけは勘弁な!!

アタマを使うと「その表現はちょっと誇張の夢入ってない?妥当じゃなくなくない?」とか「そういうの妥当と思って感動しちゃうってか。平面レイプがピョンピョコリーンってか。ド腐れ根性は島宇宙でドッコイ生きてればいいのに」とかいうことになっちゃう。いや只今の発言はビタイチアタマ使ってない感じですけども。アタマ使ったのにアタマ使ってない感じではないかと危惧しておるわけです。もったいない!アタマがもったいないよ!上手に大義名分が立ちましたら拍手のほどをお願いします。


表現には表現の都合というものがあります。文章は言語で書かれ、プログラムはプログラミング言語で書かれます。俳句の形は五七五。絵画は見えなくてはならず、音楽は聞こえなくてはならない。落語では右を向いたら八っつぁんで、左を向いたらご隠居です。それぞれ例外ございましょうが、都合あっての逸脱です。

もうちょっと即物的でないところ、キャラクター溢れ物語流れる地にも、表現には表現の都合=「お約束」ていうのに基づいています。記号ですよ記号。地の文で「女は死んだ」と書かれてたら、女が死んだことにしてくれないと、探偵困っちゃう。フニフニフニフニ。うるさいよ。
しかししかし同じ記号でも使い道が全然別、も、真逆の真裏だったりするので注意しなくちゃです。「男は悲しくなった」て書かれてたらそりゃ男は悲しくなったんでしょうが、「男の悲しみを表現したい」「悲しくなる男の独りよがりを表現したい」「男を悲しくさせるような社会の構造を表現したい」。動機はさまざまであるわけです。


なんかウィットに富んだ例とか出てこなくてすいません。まとめまると、こうです。

  • 鑑賞の方法
    1. 表現がそのまんまおもしろかったりかっこよかったりするか = ベタ
    2. 表現に用いられる記号が妥当か否か = メタ
    3. この記号でこの表現がされた動機はなんなのか = ネタ


アタマ使わないと、これがごちゃ混ぜになって鑑賞してしまうわけなのです。そんでそんでなかなか3の鑑賞はしなかったりします。俺の経験から言うと。だって『キン肉マン』読んでも「ほふーん。これんなかではこーいうお約束になっておるのね」とかっつってうなずきながら読んでましたからね。そんでパロスペシャルは脱出不可能だと信じてました。ヤマちゃんのパロスペシャルは超人パワーが足りないから不完全なんだよ!あと舞空術はありえないけどかめはめ波はがんばればできる。それが手前共のリアル。(クリエイティブ・コモンズに基づいて使用しています)


ほんで3の「動機はなんなのか = ネタ」ですけども、これネタと言ってしまうのはなんで?っていうと、その動機を考えるていう鑑賞の方法、それ自体がひとつの表現行為ではないかーないのかーないではないかーと思うからです。ハイここで女中まわりまーす(クルクル)なまはげ入りまーす(バシュー)「ないではない子はいねかー!!」
作者の動機なんかほんとは知ったこっちゃないのですが、それ考えてみると表現を鑑賞した上で表現までできるすごい一粒で二度おいしい。逆に表現ばっかしちゃうと鑑賞できないですけども。みなさんがレビューをしてくれたおかげで、そういうことを無意識でなくて理解できました。カラダではなくココロで?ハートで?タマシイで?何がなんだかちょっとよく分かりませんけども、そんな感じ。


キャラクターが心震わせることはよくありますけども、そのキャラクターを作った作者の動機にだって心震えることはあるのです。
その心意気はみなさんが勝手に表現したものですけど、勝手に表現したらいろんなもの好きになれるなら、勝手にどんどん表現していけばいいじゃない。


そんでもってほんでもって、『とらドラ!』です。ようやく!ワタシは帰ってきた!

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


おもしろかったです。ダメだダメだそれで終わっちゃ。
えと、『とらドラ!』を、てゆかライトノベル?みたいのを、2のとこで「しょせんオコチャマ向けなんでしょー」て思っちゃうといけない。それは罠ですよ!上の画像であるところの最新刊で明確になるのですけども、『とらドラ!』は3のことを登場人物が思い悩む話なのです。「あー俺らが毎日楽しいのは、みんなでつらいこと見ないよーにしてるからだよなー。でもそれって嫌だなー。だって俺変わりたいし、無理に変わらないようにしてるのは変わりたいのとか変わらなきゃなことを無視してるヒドいことなんだからさー」とかなんとか、そういう話なのですよ!
そういうのてほら『涼宮ハルヒの〜〜』さんとかアレとかコレとか、メタな記号を作品内に織り込んで表現するのがトレンドっぽかったりもするわけですけども、『とらドラ!』はそういうこと一切やんない。やんないのにバンバン表現してる。そんでベタにラブコメとしても超おもしろいおもしろい。ベタでもメタでもネタでも安心。すごいテクニックだぜー。



ノー根拠で断言しますが、表現の動機には「じゃああんた何が表現できるの」ていうテクニックがツキモノだったりしまして、動機とテクニックがうまく絡んでないときはちょっとがっかりしたりするものです。ちょっと言い方濁してみましたけども。

みなさんが勝手に表現する動機だってテクニックがなきゃ一本筋が通りません。だったらじゃあどうすればいいの?って言われても、俺だってテクニックなんかないですからアレですけど、自分の使ってるテクニックがどういうもので、それって人からはどういう動機に見えるんだろう、って考えてみたらいいんじゃないかと思います。したら自分ていう表現がナンダカ楽しくなっちゃう。

んでもって今度こそ断言しますが、『とらドラ!』を読むと動機とテクニックががっつり絡みあってて幸せな気持ちになれます。だからみなさんも読めばいい。読めばいいのです。