「女神の鬼」4巻と俺昔悪やってたんだぜマジでマジで。みたいな話。

女神の鬼(4) (ヤンマガKCスペシャル)

女神の鬼(4) (ヤンマガKCスペシャル)

ギッチョ小学生編終わってから書こうと思ったけど、ちょっと書く。


俺の身近にヤンキーがいた頃ってのは、もはやメタヤンキーの時代。(てきとうこいた)
稲中があって、俺らこんな感じだよなーと自覚した上で、それでも強かったり悪かったりすることに憧れて、タバコふかしたり、バイク転がしてるつもりで自転車に乗ったりしていた。ちょっと恥ずかしがりながら。
特攻服や長ランは着てる奴は着てたけど、ファッションの奔流じゃなかった。ヤンキーファッションはコントの衣装で、そんなん着てても女の子にはもてなかった。もてない服はすすんで着るべきじゃないのだ。
チームも作った。けどそれも暴走族だったりチーマーだったりといった様式のあるものじゃなく、ただつるんでいたのを「俺たちってチームじゃねえ?」とネタでチームをきどってみたのだった。まるでチームみたいにぶってる楽しさが半分。誰にもない体験をしている、っつー興奮が半分。
そんな家で俺は中心にいたわけじゃなく、部屋の隅っこで「GO!GO!ぷりん帝国」を読んだりしていただけなんだけど。


女神の鬼」では様式っつーか、ステロタイプっつーか、そういう意味での暴走族が背景にはいるものの、前面に出てこない。もっとはっきりとしない、ろくでもないものとしてのヤンキー。1979年には俺生まれてなかったけど、この空気はとても分かる気がする。


表紙にもなっている雛石の「俺を思いやってくれる仲間が欲しい!俺は思いやらんけど!」ってのは、よくあるチンケな悪党の理屈で、ジャンプマンガなら「間違ってる!パーンチ!一件落着!」で片付けられそうな話に見える。けど、ナイフ一本で人生変わるくらい傷つくし、嘘一つが誰にもはっきりと嘘だと分かることなんてなく、誤解の上に誤解、その上に暴力がのって、傷つくもんだ。これ言葉の上にのれば、ほらインタネッツの揉め事みたいなもんだ。
ほんでこの話は終わり。


http://d.hatena.ne.jp/./matuoka/20060805#1154790267
松岡さんの言うてる「誰にも共感できない悪役」は、雛石・真清よか小野寺とかギッチョ中学生編の金田になってくるんじゃないのかなぁ?味方にして壊れたことが癒される or 敵として殺すか跡形なくなるまでぶつかりあう。の2つしかヤンキーマンガにはない気がするけど、違うほうに行ったら面白いと思っている。あと、高橋ヒロシのその辺の感覚は独特。アクティブな戦場があって、そこから退場していく感覚と言えばいいのか。「クローズ」はアクティブな部分で、「QP」は一回降りた後とでもいうか。


そんで、ヤンキーマンガのアクセス性としての<都会と地方>対立から、俺が連想するのはヤンキーマンガの中心と周縁みたいなことで、伝説のヤンキーとか主人公が県内統一してってのがヤンキーマンガの中心だとしたら、もっとどうしょーもねー奴、ろくなもんになれない周縁のことを書く田中宏の手触りというのは、か、かっこいー!と思う。
そんで誰もが王様を目指す「女神の鬼」は”平坦な戦場”では書きづらいのかもしんない。
岡崎京子「リバースエッジ」は田中宏論の重要なサブテキストなので、みんな読んでよくようになー。
自分が青春ユニバースで書こうとしてるのは、平坦な戦場でのヤンキー像かもしんないけどよくわかんない。難しいですね。


もうめんどくさいからやめるけど、最後に、王様の意味がちょっとずつ違うのに注目して今後も「女神の鬼」を読もうと思います。僕は。