http://d.hatena.ne.jp/matuoka/comment?date=20060608#c

「横レス大好き大魔王」こと「代名詞の魔術師」ことsfllことsick fuckin'ladder labbitです。はしごうさぎ。らびっとはRだなんてどうでもいいことじゃないか。


新田先生はものしりだ。
莫逆家族」のもっとも分かりやすい特異なとこは、「中年話」ってとこだと思います。で、それの由来って映画からなんではないか。と思いますけど、詳しくないのでわかりません。田中宏の短編集「PEEK-A-BOO」(講談社)なんかそれっぽい。状況は完全に日本ですけど、その日本への落とし込み方も田中宏の特徴かと思います。
推測だけではアレなんで、もう一つ推測をつけて合わせ技でごまかします。


んヤンキーマンガの系譜は、雑誌での分け方も当然ありますけども、こんなんもあるかもしんない。
「闘争による変化」を描くものと「恒久の闘争状態」を描くもの。


「闘争による変化」というのは、これこれこういうエピソードがありまして、なんかこんなことになっちゃって、闘って、それをこう解釈できるようになりましたよ。というもの。
週間少年誌っぽい手法と言えそう。代表的なのは「湘南純愛組」「エリートヤンキー三郎」。
便宜上、これを<エピソード主義>と呼ぶことにします。


対して「恒久の闘争状態」とは、ナウイズザタイム、この界隈はそのような状況にありて、アイツがあんなこと画策して、闘って、このように関係性は変化したものの、それはこのへんだけで根本は変わらない。とかなんとか。
こっちの代表は「CLOSE」「ナニワトモアレ」とか。
こっちは<アンチエピソード主義>と呼びましょう。そうしましょう。


そんで主人公や他の登場人物が、どんだけ有機的に絡んでくるか、というのでもまた趣が違ってきます。その辺は系統的に理解しやすいことでしょう。誰からの影響か。雑誌の特色なのか。


ヤンキーマンガを描かんと欲する者は、ヤンキーかっこいいと思っています間違いなく。どういうとこがかっこいいと思うのか。それによって、だいたいの書き手は<エピソード主義><アンチエピソード主義>のどちらかに拠ったヤンキーマンガを描くことになるでしょう。物語構造ってそういうもんだろう、と勝手に予断して話進めます。


ヤンキーは嫌なもの嫌って言う。それを押し通す力がある。社会を正すことができる。
すなわち、ヤンキー=日常を打破する者の象徴。
を表現したいと思わば、<エピソード主義>が適した表現でしょう。


ヤンキーは社会の埒外であって、社会と関わらない、しかしそれゆえに美しいものがある。
つまるところ、ヤンキー=日常に侵されぬ者の象徴。
その表現には、<アンチエピソード主義>により、日常にとらわれぬ世界を創造する必要があると思います。


そんで、莫逆をどこに配置すべきか。ってのを考えちゃうわけですが。
この分類だと分けづらい。使えねえ!まったく使えねえグズだな!豚野郎!
無理やり言うと、一つ一つは<エピソード主義>でありつつ、全体は大きく<アンチエピソード主義>であり、しかし一貫して「ヤンキーかっこいい」が破滅する予感が漂っている。そんでもって、「ヤンキーかっこいい」と思う観測者が物語の中にいて(火野周平)、彼が「ヤンキーかっこいい」「ヤンキー間違ってる」を融和させるところに着地する、っていう。




どう?よくわからんでしょ?
もっとうまく書ければいいのに。と悩みっぱなしだ。どうすりゃいいんだか。