歴史学 on the 人格

ピンポンパンポン


迷子のお知らせです。あなたがいません。あなたなんてどこにもいません。


人格の識別とは消去法。オカルトで言うところの「我思い出せないのが彼であり」。思う、とは思い出す。記憶と照合することと同義です。困ったことに、一部の心無い人類は己のどの記憶とも当てはまらないものを「他者」としました。そして、複数の「他者」を識別するために一つ一つに割り当てた識別子が、人格です。記憶に覚えている千の亡霊、こうであったかもしれない三千世界を、ああでもないこうでもないと首をひねって斬り捨てし後にようやっと見出すが、個人の境地であります。個性は恥ずかしがりやなので、たいてい探しても見つかりません。個人のうちから個性を探し出すにはじっと見つめて目を凝らしては見えてきません。あらぬ方を見やるとき、目端にちらつく残像のような曖昧なものでした。


しかるに、「よぅ見えんものをどないして見りゃいいんや、めんどくせぇと考える。考えるのもめんどくせぇと考える。考えたくねぇ。だりぃ」とした一部の心無い人類が思いついたのは、予断。この頃、思い、とは思いつく。空からやってくるものでした。識別をショートカットするため、人格に行うタギング・レッテル貼り、これすなわち予断。この世には不可視なものなど何もないのだよ、関口君。とて、概念という罠に人格をおびきよせてgyuuuun!!するようになります。



そうしてキャッキャ言うて遊んでいるうち、なんかおもしろくなっちゃった一部の心無い人類が、俺も人格が欲しいよぅ欲しいよぅと駄々をこねだします。彼らは自ら概念に diveします。それを眺めているうちに我も我も我にも我を、と誰もが概念にdiveしはじめます。空前の人格形成ブームのはじまりです。次第に誰もいない概念のほうがオシャレとする風潮が定着し、後の世の「独自=オリジナリティ」となります。「他者」と「自己」はプラットフォームの異なる人類のおもちゃです。
さて概念の椅子とりゲームは進み、次第、概念は無茶を要求します。人格がどうにか当てはまる概念から、どないしても無茶な概念へ。無茶な概念は、理想です。理想の在りて在るところ。人類による未来の発見です。



「独自」とは後天的なものであり、「独自」を開発する手法はすっかり変わり果てた「思う」です。デカルトでいうところの「我思うゆえに我あり」。生理的刺激である「感情」から出てそれより分化した「思う」の発達が、人間をやたらと人間にしました。思えば遠くへ来たもんだ。ほーら、おじさんの大きくなった人間を見てごらん。
「思う」は、しかし、うつろいます。「思う」が「思った」になり、捨てた姥の重量に初めて気づいた帰り道、人類は過去を発見します。


さらに一部の心無い人類は、人格maniaが過ぎて、忘れられ消える人格をコレクションしようと考えます。記憶に庵を結びて、篭り、死を待つのみだった人格、脳内の隠者としての人格。かつて屍を重ねるのみだった人格は実体化される。つまり、それが芸術。人格の死体から「芸術」が生まれた。生まれた「芸術」はまだ自分が何者かわからない。でも、はっきりした意思を持っている。「生き延びなくてはいけません」。芸術はもぞもぞとぐずり、発見されるのを待つ。自分を育てる庇護者を待つ。やがて現れる庇護者の名は「批評」と呼ばれるが、それはこの話とは関係がありません。「芸術」に話を戻しましょう。


すべての「芸術」は平面でした。生き延びるために平面を選びました。生き延びるとは?複製されることです。そして感染することです。人格の死、忘却からそれを学びました。忘却されて、何度でも甦る。それが「芸術」にとっての生存です。文章も絵画も平面でしたし、彫刻は無数の平面の集合で、演劇はプロセニアム・アーチを求めました。ずっと未来に写真と映画が顕在化したように。平面。それは人格の傷口です。傷口だけが過去と未来をつなぎます。複製されます。感染します。人格を切り取る刃、としてようよう人類が発見したのが、現在です。ハロー現在。ようこそ。




現在の誕生と同時に、一部の心無い人類の欲望が爆発を起こします。もっと珍しい人格をちょうだい! もっとおもしろい人格をちょうだい!
同時に、「芸術」の増殖が、人類に自分を見失わせます。人格から生まれた「芸術」が、逆流し、「芸術」が人格を規定するようになります。
それってつまりどういうこと?
fiction。嘘。
これまで長々と語ってきたのは、嘘の誕生の話。この後「文明」が生まれたり、「思想」が生まれたり、「文明」やら「思想」やらが人格を規定したりして、人類はさっきまでよりずっと不幸と苦痛を抱え込みますが、それら全てを放り投げて、ここから先は、今、この時の話。




http://d.hatena.ne.jp/./kanose/20070415/character


「私がネットに書いていることは人格の一部だけ。それだけで私のことを判断してください!」


インターネットの上に現れる人格は、<何か>に切断された平面です。
書こうとして、あるいは他に書きようがなくて、書かれる文章は鋭利に人格を切断します。


例えば、日記。
memo。
書評。
文芸。
ネタ。
メタ。
例えば、論理。
コミュニケーション。
感情。
信念。
例えば、絶望。
非コミュ
ウォッチャー。
論者。
作者。
読者。
blogger


一部の心無い人類は自らを切断し、より生命力の強い人格を得ます。心無い彼らは、心無いゆえ、人格を思い通りにできます。ここに至って、思いは人格を貫く軸です。
一方、それ以外の人類は、「本当」の人格と、ネット上の人格の乖離に苦しみます。強い人格の刃に切り裂かれて。人格の軸ぐらぐらゆれて。
「本当の自分はこんなんじゃない」

それが、乖離性web人格同一性障害、と呼ばれる病です。


それで?
だから?


何も言うことはありません。
が、もし私なら、こう言うことでしょう。
「本当のことなんてどこにもないのに」
私を、死体性病を、切り裂く刃。刀身に刻まれし銘をほら見て。「嘘」っていうんです。