ローズクォーターさん、あなたに神のお恵みが欲しい!

カート・ヴォネガットという偏屈で変わり者のじいさんが死んだ、と聞いて、その瞬間よりもそれについて書こうとしている今のほうが何がしかの落ち着かないものを感じている。多分それは「どうやって書いたらいいかなぁ」という困惑なんじゃないかと思う。何かと別れるときのショックは大抵こんな風に済ませることにしている。「なんてことだ!おかげでひさしぶりに思い出せたよ」寂しいと思うことは一瞬だ。その後は少し思い出にふけり、また忘れる。そのように矯正して生きてきた。なんだか俺はどうかしているんだと思う。


カート・ヴォネガットという偏屈で変わり者のじいさんはどんなじいさんかと言うと、よく覚えていない。だから覚えていることと忘れることについて書く。記憶の方式というのはなんだかよくわからんもので、視覚・触覚・嗅覚なんかの細部、感情・思考、表現できない実感、関連性、意味、出来事を端から眺めているような奇妙な記憶、それら全てのひとまとまり、なんてなさまざまな形式を持っていて、そして俺はとても忘れっぽい。いや正確に言うと、ひとつの形、表現できない実感という形でしか記憶が長持ちしない。たぶん俺はどうかしているんだろう。


カート・ヴォネガットという偏屈で変わり者のじいさんは小説を書いた。彼の書いた小説について、思い出せるのは、なんというか、「ああ。もう終わっているんだなぁ。でも続いていくんだなぁ」という感じ。どうもうまく言えている気がしないが。それで死亡のニュースを聞いたとき、その記憶となんだか似ている感じがしたのだった。多分俺はヴォネガットの小説を死んでいくことへの準備、として読んでいたんだと思う。さて何をしようか?ぼく?ぼくは今死んでる途中なんだけど…。だからどうしたって?いや僕はちょっとどうかしているんだよ。


カート・ヴォネガットという偏屈で変わり者のじいさんは、信じているということをまるで信じていないみたいだった。ボコノン教の教義は、10代でほぼ腐っているのに木にしがみついていたぼくに、ひどくしっくりきたものだ。けれど「この中にボコノン教徒はいらっしゃいませんか?」と聞かれて、手を挙げる人間に私はこう言いたい。「そうかい。ところでボコノン教って名前は馬鹿みたいだと思わないかい?」喧嘩をしたいわけじゃない。ただちょっとどうかしているみたいなんだ。あなたと同じくらいに。


最後に。カート・ヴォネガットという偏屈で変わり者のじいさんに、ぼくはいくらか影響を受けているのかもしれない。おそらくそのせいで、彼が死んでも悲しいとは思わなかった。いや違うのかも。ひとつ確かなのは、ぼくもそのうち死ぬだろう、ということだ。これが確かでなかったらとても困る。こっちはすっかり準備できてるっていうのに!死んでしまったのために、この言葉を送りたい。「やあじいさん。そっちはどうだい?ところで教えて欲しいんだけど、そっちはすごく幸福って本当かい?もしそうだったら、明日のぼくのうんこを緑色にして教えてくれないかな。頼んだよ」


さて、そろそろ眠らなくては。ぼくはちょっとどうかしているので、たまに眠る前にこんなことを思ったりする。「明日こそはいい日でありますように!」
今日はその代わり、この言葉を思うことにする。「それじゃあ。おやすみ」