さよならだけが名言だ

おお こみゅにけーしょんよ しんでしまうとは なにごとだ


別に死んでない。教会に強制連行されただけ。しかしそういうことを死んでる言うなら、そんなもん死んで死んで死にまくっている。君に届け or die。


コミュニケーションて、ほらキャッチボール。幼少のみぎりには、ココロの交流をアレするためということで「ちょっとみんなにはこれからキャッチボールをしてもらいます」。BR法(ボールをあげるからレアポケモン捕まえてこい法)にのっとって、見知らぬ相手とキャッチボールをする我らは皆無言。フレンドリーふりまくものは皆虚し。あの日我々は愛別離苦を知り、コミュニケーションは空虚なのだなと知りました。
(全校生徒による唱和)「知りました!」
楽しかったと思い込むことにした、運動会。
「運動会!」
みんなでやり過ごした、修学旅行。
「修学旅行!」
絶望にひたるには狭すぎたこの校舎から、思い出作りと割り切ることにした学生生活を、私たちは卒業します。
「デスパレード!」


まず間違いは、コミュニケーション≠キャッチボール。なんで相手の投げるボールを受け取ってやらにゃいかんのですか。死にたくても心臓が動いちゃうほどポジティブな我々はいつも全力投球ですから、投げられたボールもろとも相手を弾き飛ばす。言葉をもってして。威力の高さより致死能率の正確さが重畳ですから、言葉はショットガンを用いるがよいでしょう。


待って待って。ここ文明社会。戦場違う。
喩えて見ないフリ健康法で心は無駄に元気でも、サーバーは不安定。「う、うそ……外部サンがあたしのこと見てる…!」(引用from『ときめきフェノメノン〜おれがシュレーディンガーの猫で あいつがアレで』)
観測者が家政婦だろうがヘッドショットスナイパーだろうが、半分死んでると気づかれては納得されてしまいますからね。てめぇは bright side of life を見てろ。おれは地球を回転させるのに忙しい。自転の自は誰が回転させようが自由の自だろうが。<自由2.0>とは一体なんだったのか会議。自由の意味を物理学者に論じさせてみた。「自由が成立する境界条件とは何か?」「自由が定性的に扱えないなら物理で扱える問題ではない」「だから理論立てりゃいいだろ実用学者が」「とりあえず無限大と仮定した自由を微分して」「それ実証して(それplagmastic)」「自由の自の字ってどう書くの?」「尻文字ターイム!」「尻とりでもしましょうか」「春売るってレベルじゃねぇぞ!」無駄だった。


結論まで飛ぶと、コミュニケーションってさよならにさよならを返すことくらいしかないんですよ。怒りだって悲しみだって共感だって、みんなみんな流通に乗るんだ貨幣なんだ。我らはみんな生きている。生きているから、払うんだ。人類は対価していらっしゃる。求めよ。さらば与えられん。ただし銭はらてもらおか。はい、おきゃくさんお感情〜ぅ!


この人は、感情の対価として何をえようとしているのか。
何かを得ようとしている人が、不当な感情を要求していないか。
光あれあれ詐欺にご注意ください。ジャッポン公共冒涜機構からのお知らせでした。


さよならだけが、失って余韻を残す。
人が今まで掴んだ言葉で、さよならだけが名言だ。
コミュニケーションとは、さよならに始まりさよならに終わるもの。遠くにありてさよならするもの。されどさよなら歌うもの。出会い頭にさよならするのが、今世紀流行の小悪魔節約術。
そんじゃお前ら、他に話すこともないので「三本締め」で締めるとしましょう。
さよならさよならさよなら。