中島らも「しりとりえっせい」読んだ。

4時間くらい電車に乗ってた。駅前の古本屋を物色。今まであまり読んでなかった中島らもをなんとなく購入。読んだ。一発で中島らも好きになった。


年に500冊の本を読んでは捨てていた若き日の俺は、騙されることにしか興味がなかった。もっと、もっと意外な真相が欲しいよぅ。いつだって叙述トリックを探して目をギラギラさせていた。麻耶先生と浦賀先生が大好きで、流水先生の創作動機に自分と同じ匂いを感じていた。
中島らもを手に取ったのは、暴力と狂気の予感がしたからだった。けれどその頃の俺に中島らもはシンプル過ぎた。狂気や暴力はあったが、それに至る理由がすんなり分かり過ぎた。そんで、他の山ほどの本のように中島らもを読み捨てた。
自分がblogにてキチガイを始めた今は、分かりやすく狂気を書く難しさが分かる。


またいかにキチガイの人も、毎日狂い続けては立ち行かない。税務署で狂っては社会でなんともならんし、スキー場で狂えば遭難して凍死。まことキチガイにくい現代、狂うべきでない場では狂わないようにせねばならぬが、そんなコントロールができるならキチガイじゃない。キチガイと自由は遠距離恋愛。ふいに恋しくなって、うっかり忘れるものだ。狂うことで銭を稼いでいても、好きなときに狂えるというわけでもない。
中島らもは狂っていないときも、狂っているときも、シンプルな文を書いた。
狂った文には違和感がある。自分などは、違和感を求めて、つい文中にざらつき・ひっかかりを多用してしまうが、違和感が引き立つためにはひっかからない部分がなくては。シンプルな、ひっかかりのない部分からの距離こそが違和感を生む。そういうのうまくできない。2、3の着想を生かすのに四苦八苦すれば、十分なのだ。十分では1000烈じゃない!10000足できない!とする向きもあろうが、10がなきゃ1000も10000もない、と数学者達は既にその地点を通過している。あ、今日はこれが着想したから書いてるんすよねー。


中島らもはいろんな角度から見る。ぐるぐる見る。ぐるぐるまわってーまわってーまわってーやっぱり川本真琴が好きやわー。
それをシンプルに書くので、短いエッセイでも密度がすごい。若かった俺はこういうの分かんなかった。老いたね。ナイス老い。こうなったからには、読み捨てた本をもう一度読んでいきたい。でもそんな時間あるかしら?老いたしなー。あれ?なんてこった。老いには構造的欠陥があるじゃないか。老いのバカ!