どんどん忘れる。何も問題がない。

日記っつーか、アレ。メモとして。


ひさびさに劇を見た。劇場っつー空気の中しか息をできない部分、俺の一部分を、少し認める気になった。
とっくに忘れていた。
そう、思ってたんだけど。
劇自体はひどかったのに。


えー、すでに破滅している男女が破滅したまま生きていて、そこに破滅を現実に持ち込もうとする男がやってきて、でもそいつは何もできないで、変わるものはあったりなかったりするけれど、それでも破滅している、という内容だった。
まとめてるつもりなのに、こうもややこしくなるのが困ったもんだ。


で、内容はどうでもいい。
気になるのは、1人の女優がハイヒールを履いていたこと。
その女優の演じた役というのが、控えめで受動的なのだけども、何かを主張しなくちゃいけないときに、手足をばたつかせるような、そういう役なのかそういう演技をしてしまっているのか。
いや、結局一言でいうけど、感情的な役だった。
でも、ハイヒール。しかも、かかとの細い、おそらくピンヒールってやつ。
それはいかんよ。
ハイヒールというのは、俺も履いたことあるけど、あれどうしても、後ろに重心がかかる。かなりがんばらないと、まっすぐ立つことも難しい靴なの。
それで、慌てて小走りしたり、必死に頭を下げたりするシーンがある。
どうしても、へっぴり腰になる。


演劇は、天然自然な人間、そのままの人間、普通の人間というのを役者に演じさせたがる。
スター性のある人間が、なんかいろいろすると、濃密な物語になってしまうが、そんなにスター性のない人間に共感させる物語は、スターも多少はいるが(突き詰めるといないが)、普通の人間が何もしない。という淡白な物語になる。
普通の人々の、淡白な物語。なんて指向が、なんだかあるらしい。(下のメモ参照)
アイシールド21も、一つの駒だ!ってなやつだ。


それゆえ、普通であろうあろうとして、猫背だったり、舌が回ってなかったり、なんか適当に話したりする。
いいじゃん。そういうのは、いいよ。
普通であろうとする演技が、物語とか演劇の中で効果的なら、いろいろやるとおもしろい。
いろいろやらなきゃ、生身の人間がなんかしてる演劇とか見る気しない。
でーもー、へっぴり腰はいけない。台無しだ。
だって、普通の人は、人前でそんなへっぴり腰になったりしない。当たり前だそりゃ。変だもん。普通じゃないもん。
そして演劇の中じゃないとこで生きている人間は、普通の人間であろうと、もうちょい気を使う。


同じように普通を目指しているのに、真逆の結果に。
なんかうっかりかもしれないし、もしや演劇の抱える構造的なアレだったりするかもしれない。
んなこたしるか。


とにかくアレだ。ハイヒールを履かせたりしちゃいけない。いけないよ。許せない。いつコケるか心配で、見ちゃいられないんだもの。
へっぴり腰の可能性をぶっ潰せ。


しかし、へっぴり腰が表現としてのアレになる演劇。そういうのは、新しいと思う。


とか、結論しとくと腹立ちがうやむやに。ちょっとした発見だ!何一つ嬉しくねぇ。