諦めるたび指を折れるほど、はっきりしていない。その一。

山水意によらずただ在り。風情を見出だす粋により。
山河雲中異郷を宿とす。名は仙潜千泉湯。雅により。
山石に埋もれるも果てぬ。幾夜朽ちぬは意志により。


とどのつまり、この山奥の宿の由来のようなものか。と、備え付けの手ぬぐいを眺めつつ、袴々田(はかまばかまだ)は思う。かつては千もの秘湯をただ一山、ただ一宿が所有していたというが、それは誇張だろう。せいぜい十か二十ばかりに、小さく湯が湧き出しているという程度の。
にしても、個人向けの温泉に他の客と顔を合わすことなく浸かることができるというのはこの宿の、仙潜千泉湯の目玉であり、今回の旅の目的にはぴったりだった。


さて、奴らはいつもの如く遅れてくるだろう。何事も時間を守れぬから、こうして宿をとることになって、と愚痴愚痴とし始めた思考を振りほどき、まずは湯にあたっておこうかと考える。まだ荷物も解いていないが、時間はある。そう急ぐことはないのだ。秘湯に来たからには、秘密を覗いておかねばならぬ。なに、女になったり、パンダになったりはするまいて。と考えて、ふっと思い出す。おおその前に、事前に宿宛に送っておいたサンデー黄金期コレクションを受け取っておこう。長逗留にはサンデーを欠かさぬ女、袴々田は、いそいそと部屋を出た。スキップで。高橋留美子が描く女の子みたいに。
残された部屋。窓からは垂れる柳。冬から春へ、変わり目の緑。溶けるような空。




同じ空。違う空。漆喰の、コンクリートの、強化モルタルの壁。多様な、凡庸な、人の造りし、構造偽装されし、団地。の一戸。
結婚式を挙げて翌日、ボクらは旅荷物をまとめている。


「ねえ。Gペンのヘッドあったよね?」「え?買い置き?」「うん」「そっちの荷物じゃない」「いや、あんたの部屋に……。あんたってないなー。だんな様の部屋においてたやつ」
「えーと、奥様が先月泊まりに来たときんだよね」「うん」「あーあった」「おー。買いに行かずに済んだー」「漫画家は大変だなー」「そうよ。だんな様はパソコンだけでいいですものねー」「んなことないよ。ほら、原稿用紙とか」「手書きしないじゃん」「いや……まるめて捨てたりするじゃない」「文豪気分で?」「そう。太宰太宰」「太宰かよっ。不倫して入水かよっ」「いやすいません。ないっす。ありえないっす。ちょう愛してますよ奥様」「はは。うぜー」「ほら、愛の証に」


荷物の底からコンドーム。声にはださず苦笑して、奥様は自分の部屋に戻る。しまった。言った俺が負けだ。恥ずかしい。甘酸っぱい感情の余韻を味わいながら、粛々と荷物の整理に戻る。


しかし気楽なもんだ。奥様に食わしてもらってる売文屋ブロガーは。細かい仕事の資料と執筆用のノートパソコン。あ、こいつを忘れちゃいけない。ペドロ・ブロゲール。初版本。これを元に、ずっと念願だったあの小説を書く。それがこの、新婚旅行兼奥様のかんづめ旅行での、ボクのひそかな野望だ。いつまでも奥様に衣食を賄っていただくのが気楽とは限らないからね。