佐藤多佳子「黄色い目の魚」

黄色い目の魚 (新潮文庫)
「何か作業を行っている状態を主観的に描写する」、とか書くと何のことやら漠然としててアレじゃんよ。
えー、絵を描く人が絵を書いてる最中に、頭に浮かぶこと。
好きな絵描きの絵をファイリングしてるときに、思っていること。
サッカーをしながら、プレイ中の自分を俯瞰しようとして、しきれぬ状態。
そんな描写っつーのに、エクスタシーするのです。俺ってば。エレクチオンじゃねえ。エクスタシーなの。なんだか結局漠然としてんなー。テヘ。


んじゃ、エレクチオンするのは?ってーと。
主観の人には、他人の行動の意味やましてや自分の気持ちさえも、わからない。
それでも、想像して、欲望して、悩んで、うー言ったりもする。するんだ。して、しても、人生を選んでいくこと。それがすれ違ったり、重なったり、なんて構成にエレクトする。ビンビン。時には苦い出来事に、しゅん、てして毛が挟まる。



注:下ネタが過ぎるので、上のとこは「エクスタシー=音色」「エレクチオン=アンサンブル」と変換して、お楽しみください。ズリネタにしてください。してして。


なんてな俺が、膨らんだりしぼんだり、出したり入れたり、いっつも忙しいのが、佐藤多佳子。この本もすごかった。
もし、佐藤多佳子が「文筆家が主観の人の一人の小説」を書いたら、俺大変なことになるわ。口では言われんことに。パンツの中が。


「エピソード=プレイ内容=メロディ」は、読み終わって冷静になればありふれたもんで、漫画でやると視点が遠くなっちゃう(=AV=ライブ感がない)。でも、「読書=プレイ=音楽」は、愛があると輝くんだ。
愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。って、何度も唱える。
泥沼に沈んだ死体でも。
浮かび上がるのは時間に任せるぜ。