あこがれの、関西

関西出身者に特有と思われる思考の流れ、いや、ほんとにそう考えてるかは分からないけども、口で言う、話し方の技術なんて言うべきもの。


いいな。かっこいいな。おもしろいな。あこがれるな。


どないなとこに、ってーと、「あほみたい」と「あほやってまった」を次々と行ったりきたりする志向性に、かな。
「あほみたい」すなわち他人を踊らせる話し方と、「あほやってまった」すなわち自分が踊る話し方、ってのはだいたい分業化されて、別の人が担っている役割なことが多い。
つまり、俺ボケタイプあんたツッコミタイプ、ってなもんで。


その役割分担は漫才なんかの型を形成する際の必要から生まれた、という歴史がありそうだ。漫才が役割を明確にし、その形式が日本全体に受け入れられるようになって、大衆化し一般化した。
しかしそれが、漫才の本場といわれるような関西では、決して分担化されているわけではない。むしろ、話の流れに乗ってそのときそのときでに誰が「ボケ」で誰が「ツッコミ」なのか、入れ替わりを繰り替えす。


漫才が、会話の面白さを表現する過程で、より分かりやすいものとなるために、「ボケ」「ツッコミ」を分担した。その漫才が大衆化した結果、分担することが面白いことの基準になってしまった。
なぜ?それは、社会がコミュニケーション不全に陥った現状に対する研究の報告にゆずるとして、漫才のおもしろさは関西人の会話の簡易シュミレートである、ということはいえる。


ならば、すでに役割を分担し、コミュニケートする世に生まれた世代は、原会話である関西の会話を見につけることで、新たな関係を築く礎を得ることができると言えるかもしれないということはないかもしれないが、おもしろいに越したことはない。


そんなこたぁどうでもいい。清水みちこの雰囲気だけでものまねする芸がおもしろうてたまらん。