思い出せない。

先日の「恋愛的瞬間」と「戦後民主主義リハビリテーション」が似てるね、って書きっぱなしでどこのことだったのか思い出せないままだ。
んー適当に書いてみようか。
いつもそうですが、ネタバレしまくりですんで、ご注意ください。

たとえば、「戦後民主主義リハビリテーション」所収の「消費社会論考」において。
批評や政治のことばが「強者が大衆を導くもの」となりつつあること(石原慎太郎とか教科書批判の人々の屈託ないナショナリズムとか)に対して、「80年代に一斉に商品化され、サブカルチャー全般とまさに水平の位置に並置され」た言説から語りえることばを得た、という大塚自身が、

80年代消費社会を支えた言説は「主体」を回避する言説であった

と、その由来を規定する。でもって、ナショナリズムな人達が、水平に置かれたことばを特権化しようとすることに対して、

「知」や「ことば」を商品化していくツールの中で80年代に用意されたメディアの中で、「啓蒙」を口にしても説得力に欠ける

とつっこみ、批評家としての大塚の選択する別のアプローチは、

たった今、必要とされているのは「個人」という水準でいかにことばを引き受け、責任「主体」として「成熟」していくか

だと提起する。




似ていると思うのは「恋愛的瞬間」のこんなとこだ。
「恋愛的瞬間」に基調としてある「関係性、恋愛という関係性は己が幸福にいたる方法だけど、恋人同士でもその方法は違っている」との認識。それを理論立てて語る森江四月と個人のことばで語る恋愛をする人々の対比っていう構図。
一例あげとこうか?

第二話「死んだふりをする女たち」で、もう別れた恋人が手首を切ったと電話してきたり、女の子紹介すると呼び出したりする。迷惑だ。それでも行かないわけには行かない。
帰り道。一緒に歩くと、歩道橋の上でステップを踏み始めた。必死に止めると倒れこんで、目が合った。その先に月。唇が触れた。舌が絡んだ。ためらっていた指が髪をかきあげ、頬を包む。
彼女は笑っていた。
「俺を試したな!そうやってずっと、試し続けるんだな!それが、そんなのがお前の愛か!?それなら俺は…」

森江四月は言う。
百通りいれば百通り。千通りいれば千通り。それぞれがことなり、ひとつとして同じものはありえない
たとえば片方が被害者であり続け、片方が加害者であり続ける
一見異常で一方的な関係でさえ、それぞれがその役割を真に喜びとして感受できるなら
関係として、十分成り立つのです

「もう嫌です!俺はまともに人に向き合いたいし、愛し合いたい!
試され続けることが愛だなんて、納得できない!」

森江四月は聞く。
彼女を愛していますか?

心理学者に救済されたかった。それはお前の責任じゃないと言ってもらいたかった。
頭を抱える。
「今さらそんなシンプルなこと聞かれたって、もーわかんなくなってんだよーっ!」

さらに、森江四月は聞く。
彼女の死は、苦痛ですか?それとも迷惑ですか?
彼女の死を少しでも迷惑だと思うなら、警察か救急車を呼べばいいのです
そうしてもう二度と
何があっても二度と
会わないこと

電話がなっている。今夜も彼女が、電話をならしている。

その時彼女が、自分の手で
警察なり救急車を呼ぶことが出来たなら
それは、彼と彼女の
恋愛的瞬間と言えるだろう

大塚の、批評家と批評を消費する読者への、挑発交じりの提案。
吉野の、個の恋愛感情の表現に、批評する第三者を置いた物語。

似てない?