現在の自分に繋がる論旨だったので、トラックバックしてみました。

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20050104#1104792503
「おまえにハートブレイク☆オーバードライブ」の「“反抗”という自己形成過程が失効したのはなぜか」

山田昌弘希望格差社会―「負け組」の絶望感が日本を引き裂く』が指摘する「パイプラインとしての学校教育制度の破綻」”というくだりについて。引用すると、

「パイプライン」とは山田の比喩だが、とりあえずレールに乗ってしまえば安泰という、バブル崩壊まではかろうじて存続していた日本的教育システムと就業(終身雇用)の連携を指す。そのパイプラインがあちこち、というよりあらゆるところで破れたせいで、オーバードクターを頂点にシステムが瓦解し、結果としてフリーターという受け皿にこぼれ落ちた層が受けとめられていると山田はいっている。

僕が高校時代の時だから、3,4年前のことになるけど、このような「パイプライン」というのは確かにあった。入試の現場にいる教師などは、このような仕組みに疑問を抱いていたけれど、三重の片田舎では「でもとりあえず、進学しとくしかないんじゃない。せっかくだから」というのが結論だった。

一方僕は、いろんなことをだらしなくやったりやらなかったりしながら、この場所のあんまりのつまらなさにイラついていた。学校の帰り道、歌ったり芝居の台詞をつぶやいたりして、「本当の音が鳴っていて本当の台詞が話されているらしい」東京に憧れていた。田んぼの隙間を縫うような道で自転車をこぎながら、「東京の大学でも受けてみよう。せっかくだから」と思っていた。

二つの「せっかくだから」の思惑に齟齬はなく、衝突は起こらず、僕はなんかいいとこらしい9割が大学院に行く大学に合格してしまう。


虚無感から開放されんがために単純に「上京」というストーリーに乗っかってしまった。
よくある話かもしんない。
けれど、その先にある虚無感からの開放なんてものはない。何一つ満足などしていない。いらだちは消えず、次の目標を立てることになる。


「大学院に入れば」「就職すれば」と次の目標を設定。「パイプライン」上にいる限り、生活なんかはすべて保障されてるもんで。奨学金とかね。
目標設定→達成→無充足。
それはリピートされ、過去・現在、さらには予想される未来にえんえんと虚無感が累積している。


以降はまったく私の想像でありフィクションです。


その絶望に満ちた繰り返しから逃げ出すために、どうすればいいのか。
そこでふと気づく。もう「パイプライン」なぞに乗らなきゃいいんじゃねえ?
虚無感が行列のように並んでいる。そのような「パイプライン」上で、虚無感から逃れようとするなんざ、愚かだったよ俺は。そんな目標というのが間違っていたのだね。つまり、目標さえ間違わなければ、僕は全部うまいこと達成できたのだから、オッケーじゃん。よし、やめたやめた。大学なんか、やーめた。

はい、目標設定。そして達成。退学なんて、書類一枚と教授のはんこだけだからね。理由?「うちの大学でやってる、なんか学問とかはぁ、僕にはあってなくてぇ。ちょっと僕の、才能?っていうの?そういうのを別の場所で試してみたいんですよぉ」とか言っておけば、ほら親も泣かないし、いいんじゃん。オッケーじゃん。
そして、フリーターが生まれる。挫折したことのないフリーターが。


この後、充実した生とか満ち足りた俺を目指して「俺ミュージシャンとかなるんだぁ」とか目標を立ててみると、「ああ、あなた学生じゃないんだぁ。ふぅん。え、音楽とかやってるの。わーすごーい。今度聞かしてよぉ」とか、そこいらの女子に子供に対するような褒め方で持ち上げられて、得意の絶頂。てな調子で増長。


しかし「パイプライン」の上ですら、乗ってりゃみんなちゃんと連れてってくれるんだよ安心。などと言いつつ、実際は椅子取りゲームのように、用意された席を奪い合ってるのが真実のところ。そこに乗ってない弱肉強食の世間では、それはもう壮絶・熾烈な畜生がひしめきあっている。
そこで、一芸に抜き出る、一角の人物たるためには、やはり相応のセンス・才覚というもの、さらには機会を逃さないとか作り出すアグレッシブさが必要となってくるため、ただなーんとなく言われるままで達成してきたそれまでのようにはいかない。


結果、今度は挫折してしまい、どうしたらいいか分からず、おろおろするうちに25歳。途中「デザイナーになる」「アクセス数百万のサイトを作る」他、いろいろと目標を変えてみるものの、どれもうまくいかず、挫折挫折挫折の連続。
それでもう、目標設定にすら倦んでしまって、「いや、ほんとはもうちょいなんとかなってたんだぜ。でもガツガツすんのも、かっこ悪いじゃん。いーよ。ちょっとバイトしてれば暮らしてけるし。はは」などとほざいて、ニートさんが生まれる、となるんだろーね。

ニートからの脱却に欠かせないのが「きっかけを逃さず掴むことだ」という主張は、いまもってニートにほど近い人間としてはうなずけるところではあるのだが、現在ニートに分類される奴らの虚無感はたぶんもっと深いんじゃないかという気がする。それがどうして“反抗”というかたちへ結びついていかないのかは、やっぱりよくわからない。

「反抗」というのは挫折があればこその、「負けるもんか」「何くそ」「俺の本気見せたらぁ」ってな気持ちから生じてくるものであろう。
常に達成し続けて、挫折したことのないあほんだらのぼんぼん、二代目の若旦那がごとき人物が挫折してしまったとき何をどうするか、ってのは心理学の用語でいやぁ、逃避の類のごとき有様となる、もしくは70やら80年代パンクミュージック・ニューウェーヴ等の思考・想念に傾倒し、薄暗い部屋で「……ないないないない」とつぶやき続けるようになる。ほら、それオレオレ。

そのような様を、クールに、大声でわめきちらしてるのが、mostの音楽だよ。
あ、あとスピッツ。まともじゃない感じで、あのきらきらのほうへ昇って行くといいよ。
とか、投げっぱなしで終わり。



長くて読み飛ばした方。つまりは、
ニートってうまくいかなくなった二代目の若旦那のことだよ」
と覚えておこう!