理系風味思考
時間は座標軸の一つだから、過ぎ去ってもただ遠いってだけと認識している。んで脳内ストーキング愛好家(フレディ・クルーガーフォロワー)なので、遠いほうが愛が募る。初恋は産婦人科の看護婦さんでした。まあそんで記憶してるかどうかは関係ないっていうか、ほっといてもフラッシュバックはするし、あったこともなかったこともありえなかったこともなければよかったことも、同じだ。認識すれば。行間は読まなきゃ存在しない。認識すなわち行間。識即是空。思い上がるな。悟ったと悟るなんてよぉ。ちょっと意識は棚にあげて置いとこう。邪魔だから。
そして情報がやってくる。感覚器官から。ふすまの向こうから。ヘッドホンから。36億光年の彼方から。ウェブブラウザから。フィクションから。背後から。すぐ隣の、触れそうな肌から。記憶から。
認識する。反応する。感情はしない。棚の上ではしてるかもしれないが、そんなこた知らねえ。
その反応は人間の本質?僕にはよく分からない。まるでパンジーの花弁、めしべに触れないおしべがオナニーしてるみてえだとは思うけど。植物の生活の本質。ために。ために。ために。ためにありたい奴は勝手にあればいい。
そしてそして、ただ反応は記憶される。感覚処理器官に。ふすまを破って覗く眼に。レコードに。36億光年彼方に。ウェブストレージに。フィクションに。後ろに、またはすぐ隣にいる君に。君の記憶に。
世界は記憶するためにできている。それも一つの解釈で、どうでもいいことなんだろう。
遠くにありて想っている。
じっと。ずっと。
3時間。3次元。
あとどのくらい?
時間と距離が、想い出に変わって忘れない。君の遠さを、どうでもよさを、忘れたことを忘れない。