京極夏彦に思うニョロニョロ

「ウブメの夏」とか、古川日出男諸作品ののネタバレが含まれる内容ですので、夫以外の人は見ちゃイヤ。


京極夏彦さんは、「ミステリーってのは何ぞ」と思いて、新本格界隈を読み漁っていた4,5年ほど前、ノベルスの裏掲載の推薦文のその豪華さのさのよいよい。
「塗仏」まで一気に読みました。
んで、「オンモラキのキッス」が出るのを楽しみに待っていたら、音沙汰なくて忘れてしまってほったらかしていてさてはて。


んで、「ウブメの夏」映画化ってことで、さも思いだしたかのようなうろ覚え。ってのはこんなんでした。

坂を登ってふらふら→長い前フリの会話→不気味な病院で殺人→殺人が起きて意識がグラグラ→………

これを五感に振り分けると、こんな感じになるのかなぁ。と思ってました。

坂を登ってふらふら触覚→長い前フリの会話聴覚→不気味な病院で殺人視覚→殺人が起きて意識がグラグラ知覚→………

知覚、とか五感ではないんで、「感情」と言い換えてもいい。
受け取った感覚と意識にずれが生じて、ストーリーを構成する心変わりが生まれる部分ってことです。特に初期の作品では、この「感情」とくくった部分でのみ、心の変化を扱っていて、他の感覚の部分は変化を書き出すために、常態の説明をしてるんじゃないか、と思っていました。


で、メイントリックが視覚にかかわるものであるので……うんちゃら
「感情」の部分でのみ、変化を描写するという技法は……かんちゃら
なぜ味覚がないのか、そして変わりに感情があるのか……ちゃんちゃら


と、ゆうような感じで書こうと思っておりました。



しかし、こいつは間違いでした。
いやこんな感じで分類して論じることもできるんだけども、そこはあんま重要じゃないよなぁ。とか。


ここで確認。
このムダ話の目的は、古川日出男京極夏彦の創作技術における共通点、そんで、それをいかに普遍的な創作技術に抽象化しえるかということでございます。


で、より本質に近いと思われる共通点を見つけたので、それについて。


そりは、どちらも内部に別の表現物を含んだ小説だ。っつうことです。


ちょいと言葉が分かりにくいんで、実際の例を出してみます。


古川日出男の「沈黙」の主人公は、美術の学校に通いつつ展示会の仕事をしています。日常では大叔母にあたる静香さんと料理を作ります。そして、静香さんの家に残された、消えた音楽「ルコ」を聴き、それを読み解こうとします。


「アビシニアン」はにおいのスペシャリストである文字を失った女に向けて、生きることをシナリオととらえて演劇の台本や対話集を書き続けていた男が、一つの物語を書こうとします。2人は「ミツバチのささやき」という映画を見て、その物語を失い、世界を失い、そして、愛を見つけます。


もっともそれが分かりやすく、かつ顕著なのは「サウンドトラック」です。
メインの三人には、それぞれの世界を解釈する方法(音の存在しない音楽、感染するダンス、カラスの眼から見た映画、といった)があります。そして、違った方法でお互いやその他の人物を知覚することで、複雑な世界の有様を読者の中に構築します。


ちょっと本が見つからないので、例が適当です。
ただ、架空の展示会や実在する映画といった、表現物(あと創作物)をどのように捉え 、知覚するか、という描写によって、それを知覚する人物はどのような人物か、を描写しているのです。
と、ここまでの流れを捉えておいてくださると、話が楽チンなんですが、どうでしょう?


そんで、その知覚することが、世界を書き換えて再構成すること、というのが、古川日出男の一つの、小説を描く手法です。




で、もうちょい手法が分かりやすいた、構成は複雑なのが京極夏彦です。


まず、現実がそれを知覚する人によって異なったものだ、としたことを描写します。
異なっていることの表現として、伝承や文献を使用します。
それらを信じているかいないか。
どのような距離でそれに接するのか。


もっともフラットにどれにでも近づいてしまうのが関口巽であり、万人に納得できる共通点=普通と異常に分類するのが京極堂です。(この辺自己言及的に、いきなり「魍魎」で崩したりしてますが、基本はこうだ、とした上での変化だと思います)


「ウブメの夏」では、京極堂は全員そっぽを向いて、見えていない「普通ではないこと」を、民俗学・心理学・医学など、さまざまな観点に分類した上で「普通な(可能性のある)こと」と説明し、全部のそっぽの向き方に視線を合わせてしまって、もはやどこを見ているか分からない関口巽には、「妖怪だ」とすることで、異常と普通の線引きを示します。


ミステリーとしての京極堂シリーズの魅力は、「この世に謎など何一つないのだよ」っつー決め台詞の通り、謎を作り出してしまった各人の知覚を、一意的にではなく、各人それぞれに分類して解決した上で、その複合した知覚をさらに妖怪に分類する、という謎解き。
そして、それでも異常を選ぶ人々と、異常に行きかけても生還する関口。
その違いを生む感情とは何か、という謎を残す。
という、謎解き小説が生む謎、という構成だと思います。陳腐だけど。


んで、その構成を作っているのが、内部に別の表現物を含んだ小説だいう技法ではないか?と思います。


京極夏彦の小説で解決される謎、残される謎は、京極堂が語るさまざまな文献の引用部分ですでに表明されています。
「ウブメの夏」では、えーとたぶん、榎木津の特殊な知覚に関して説明するくだりが、それにあたるんじゃないかな。


や、結局うろ覚えだ。なんかまったく説明できた気がしません。どうしよう。




どーにもグダグダになってきましたが、結論行きます。
覚えてますか?このグダグダ話の主題を。


古川日出男京極夏彦の創作技術における共通点。で、それをいかに普遍的な創作技術に抽象化しえるか。ですよ。


共通点はこうなりました。(俺多数決で)

小説の内部に別の表現物を含んでいる。

対して相違点は、

含まれる表現は
古川日出男は個性を描写するため。
京極夏彦は、謎を描写するため。
それぞれ用いている。

で、小説を書く際に使えるテクニクーってのはこうです。

抽象的なことを書くより、適切な例を提示して、それをどう知覚しているか。という風に描写したほうが、よっぽど分かりやすい。


つまり、こんな文章読んでないで、お2人の本を読んで見て下さい。ってことですね。
……最悪なオチだ………。


若い作家には、例で使ってるネタがわかんないから放りだしたくなるような方も多いですが、(例:久米田先生  一部の人にしかワカラナイネタのほうがおもしろいに決まってる!)んで放り出しちゃうのはもったいないと思う気持ちで、こいつを書いたのさ。




参考:
こちらの方が、より広い問題意識で、読みやすくアレしてるので、もうこっちを読めばいいじゃん。
「たった一つの冴えたやり方」
ライトノベルでの虚構と現実〜現実をどうするか〜
http://hobby.2log.net/outof/archives/blog190.html
http://hobby.2log.net/outof/archives/blog191.html
http://hobby.2log.net/outof/archives/blog193.html
http://hobby.2log.net/outof/archives/blog194.html