くそっくらえなラブストーリー

バイト前にやっている月九ドラマ「不機嫌なジーン」をちょぼちょぼと見ていて、昨日最終回だった。
大学の生物学の研究室が舞台のラブストーリーで、当初は節々に出てくる生物行動学の知識は竹内久美子の本をネタにしたもんだよなぁ、とか思いつつだらだら見ていたんだけども、だんだん、このドラマはけっこう面白いと思い始めていた。



だいたいにおいて、ラブストーリーっつーのは、恋愛におけるもっとも強いところ、いわば恋愛の瞬間最大風速を抜き出して、一時間の枠でエンターテイメントしているもんで、けども「不機嫌なジーン」はそうでありつつ、そうじゃない。
一時間のうち50分くらいが、ラブストーリーにしては余計なモノでできている。
不機嫌なジーン」は、比較的長いスパンの時間を描いたドラマで、研究者たちの日常をわりにきちんと描写して、そんな中でも、あんまり恋愛風の吹かないところでも、やはり気持ちは動いている、ってことでエンターテイメントしているのである。
日常のちょっとした変化。ちょっとした気持ち。ちょっとしたゆらぎ。
これは、風びゅんびゅん毛ばっさばさなラブストーリーの、どこからどう見てもわかりやすいエンターテイメント性(ハリウッド映画の場合のCGと同じ)とは、ぜんぜん違うもんだ。ちょっとしてようとばっさばさだろうと、面白いかはさておいて。
んでその上で残った10分で、余計なモノのところで積み重なった小さな感情を、月九スタッフのつちかったセオリーを駆使して、爆発するようにラブするんである。これがすごい。そこまでのたまったラブがあるもんで、ベタベタな展開でも正しいものみたいな気にさせられる。
こりは、このドラマは、少女マンガの文法で作られてるんじゃないですかい?
ってな風に思い、少女マンガラヴァーの血が騒いで、楽しみにするようになってしまった。



しっかし、昨日の最終回は見事に肩すかし食らった。
違うわ。少女マンガじゃねえわ。
かいつまむと、日常と恋愛ってなあ、両立しないもんで、恋愛で幸せにはなれるけれど、そのために日常が変わってしまえば、後悔するだろう。
好きじゃなくなることはないけど、きっと後悔する。
じゃあ、恋愛はやめよう。
なんてぇのであった。

それは、少女マンガじゃない。
それを踏まえて、それでもラブを求めるのが少女マンガじゃんよう。そんで、そんな覚悟して恋愛しても、やっぱり日常はある。ってなラブストーリーだったら、それでもエンターテインしていたら、テレビドラマとしちゃ新しいし、俺は腹かかえて笑ったと思う。*1
でもそうじゃなくて、じゃあなんだったのかというと、「思い出を美化するプロセス」を全10回くらいにわたって忠実に再現したドラマ、である。
いろいろあって、恋して、ドキドキして、わあ幸せだった。という回想なんて、頭で思えばそりゃ一瞬。それをひとつの恋愛を例にあげて再現した、と。


最終回、最後の場面、別れることを選んだ恋人たちは、数年ぶりにたまたま再会する。女は動物学の世界的研究者になっていて、その相手だった男は研究もしつつ、新しい恋愛をしている。ドラマが始まったときと同じように。二人は、ぎこちなく挨拶して、さよならと言う。どちらも振り返らずに、去る。ドラマは終わったという思いが通じ合っているように。

脳髄でむいみーがふるふるしている。

で、ここで終わらない。さらに時は過ぎ、タクシーの中、運転手がラジオのチャンネルを変えていくと、ふいにドラマの挿入歌だった、ラヴァーズコンチェルトが聞こえる。運転手に命じてチャンネルを戻させ、女は目を閉じてそれを聞く。

むいみーがなんか増えた。で、わなわなしてるよ。

月九は、社会人の女性じゃなくて、社会人の男性をターゲットにし始めたのかもしんない。
だって男に都合がいい恋愛の理想像じゃん、これ。後腐れなくて。
若い野心家が新しいドラマを作ろうとしたけども、上司が理解できずにもめて、会議の結果ラストがこうなったんだ、とか妄想しておく。

じゃなきゃ、むいみーが破裂しちゃう。

*1:そりゃ、セックスアンドザシティか、と書いた後思った。