愛する、の組み立て方(注:スピリチュアルカウンセラー風味。)

先週くらい読んだ雑誌(スピリッツかなんか)で、リリーフランキー本上まなみマイラブの対談にて。

リリー「ドラマとかで記憶喪失の人が出てくるだけで泣いちゃう。
だって実際記憶喪失の人って見たことないでしょ。周りにいない。
本上「ああ。私もない」
リリー「ほんとはそれってすごいことなんだよ。だって記憶ないんだよ。
でも記憶喪失の役が出てくるのでも、実際に取材とかしたんじゃなくて、イメージ、自分も誰かのドラマで見た、最初にそれを扱った人の作ったイメージが刷り込まれてて、それ元に作ってるでしょう」
本上「やさしそうとか」
リリー「ブランケットなんかかけてる、とか。そうじゃなくて『あたしぃ記憶とかないんだよねぇ』みたいな人もいると思う」

と、記憶で書いてるのでおおまかだが、このようなことが書かれていて。
本上まなみのキュートな笑顔に誘われて。
「すいません。記憶とかないんですけど、あなたのことが好きでした」
なんて告白から始まるラブストーリーもいいんじゃない、なんて。


ここで、告白される側を主体とし、告白を受けての困惑、失われた記憶の解明、その過程ではぐくまれる愛、などを描写すれば、それは「変わったシチュエーションのラブストーリー(おそらく主体がツッコミとなるコメディ)の一幕」となる。


また、告白する側を主体、告白される側を常識的な客体とすれば、主体のなぜ客体が好きだったのかという疑問に発し、記憶が戻っても戻らなくても、客体への愛を再認識する「ノスタルジーが主題のラブストーリーの始まり」となるだろう。


さてそこで、告白する側、される側、いずれを主体とするとしても、告白される側がそれを受け入れてしまう場合。「記憶とかなくても、好きでいてくれて嬉しいです」という場合。
告白する側のされる側への不可解な思いというのは、他人(それが愛する人であるかもしれない)へ抱く思いというものと同じじゃなかろうか。逆に、告白される側のする側への認識は、他人(愛する人も含んでいる)への認識と同じものではなかろうか。
そんな二人のお話を考えてみよう。
そうして考えたお話は、「考える人の主観的認識」というものの反映になっているだろう。
出来事をどのように捉え、自他を位置づけ、記憶しているか、ということを。
テーブル越しの昼を、電話越しの夜を、目が合った朝を、遠くに見かけた日暮れを、どんな風に思っているか。



ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」より。
共に過ごす時間、離れている時間、どちらも長い長い時間。
その末に、夫婦は再会し、抱き合う。
そのとき、女は愛を手に入れたと思い、男は絶望している。