その絶望的可能性、ってどないやねんそれは。

柿食う客「挿入ジェノサイド」を観劇した。
先日お勧めした芝居。で、お勧めしといてなんなんだがつまらなかった。というとちょいと嘘になる。

ずいぶんと完成度が低かったように思う。でも、それがどこまで演出家の計算であるか、詳しくはどこまでが役者の力量による妥協で、どこまでが作品の構成に含まれたものなのかが分からない。
なんか、完全に部外者面して分析してみようかと思ったが、それじゃちゃんと表せない芝居だったみたいな気がする。
暇で暇でしょうがないフリーターで、人生のこだわるべきところのバランスが大変だらしない自分の、その辺をちょっと活かしてみて、何かとこの芝居を考えてみようか。



まあ、絶望的な芝居なのだ。
SEXの話ばかりをし、SEXにこだわり、SEXに振り回される登場人物が大半で、そんな個々人のSEXの観念とでもいうものが、何か大きなものを動かしそうでそんなに動かず、しかし登場人物はそれぞれに破滅し、それが連鎖して何一つ残らない。おおまかに言えば、そのような芝居。
全部で30人ほどの、ほとんどの登場人物は舞台上で死んでいったり人生の車輪がはずれたりし、そうでない人物もどうしようもなく破綻した出来事を起こしたり巻き込まれたりしつつ、行方も知れずに去る。
いろいろと希望のようなものがうっすらと見えつつも根こそぎ消えていき、最後に残った希望(のようにみえる)、南の島への切符を手にした女は、なんか歌謡曲を大雑把に歌って踊り、徐々に登場人物が全員出てきて、歌謡曲に乗って歓声をあげる。大熱狂だ。でも、歌ってる女だけは大雑把だ。観客置き去りだ。
えー、んで、歌っていた女も死ぬ(理由がなんだかまったく記憶にないけど、多分そこはどうでもいい)。
多分この辺でおしまい。



こんなちゃぶ台の上の何食っても砂だった、みたいな感覚の芝居は今現在もいくつかの劇団で行われていることなのだけども、たいていの場合、それらは何か確固としたフィクションを構成し、そのえらくデコレ−トされたフィクションがあまりにも無意味なことを通して、芝居の世界の無意味と、それを見ている客側の世もおんなじように無意味だよ、と思わせる。

しかし、この芝居はそんな構成すらないとゆうか放棄しているというか。

うまく言えないが、この芝居の当日パンフの演出家紹介に「超説明台詞」「棒読みメソッド」なんてことが書いてあったりする。何らかのフィクションを構築する芝居であることすらやめているみたいだ。
脚本も、分かりやすいボケツッコミの笑いどころは設けてあるんだけども、つじつまとか脈絡がずたずたの登場人物達の行動は基本的につっこまれることがない。登場人物は、ただただ「超ウゼえ」「どうでもいい」という肉体的な感覚でのみ話を把握し、展開や他者を納得する。



なんかだんだん書いてて限りない妄想を広げているだけのような気がしてきた。でもまあ、そのように、一貫して断絶した、表現だかなんだかすらもう分からないものが観客には提示される。
ここで、一緒に観劇した友人2人の感想。
友人1「レイプ集団が、実にレイプ集団ぽかった」
友人2「○○と××の女優を口説きたい」
これが、最先端のエンターテイメントかもしんないよ。



一応ここまで褒めてみたんだけども、俺80年代に限りない共感を抱く84年生まれだから、ついていけないとこもあった。
笑いをとるとこ、言葉の力と役者に頼りすぎてつまんない。どんな理想があっても、笑いのとこは微細な部分にこだわんないと面白くならないし、笑わせたい意欲はありそうなんでもっとうまく笑わせてほしい。
具体的には、「超説明台詞」なんかもしんないが、舞台上の情報量が少なすぎる、アーンドギャグがほぼ出オチなんで、意外性が乏しいとこに工夫の余地があるんじゃない?
もうひとつ。もし上の妄想のような思想で演出してたとして、台詞を噛むのは、演じてる感が出てしまっていけない。演じてる感を感じさせないためには、逆にちゃんと演じないといけない。役者ごとの演技のテンポが違いすぎるのも、コントロールしてそうしないと、単純に台詞が聞き取れない。

と、見てるか見てないかわかんない本郷に向けて、言っておく。