ウェディングケーキに斬撃を

先生が一休君と柳生君に言いました。
「1人の人間を3つに平等に分けなさい」
http://q.hatena.ne.jp/1152759792/25731/#i26190


●先生がブロガー君とポエマー君に言いました。
「1日の体験を3つに平等に分けなさい」


ブロガー君はいつでもエントリに分けてから考えます。
まず昨日の体験から、感想を抜き出しました。

  • 上京してきた旧友に東京を案内するときは歩いて案内するといい。行きたいところへなど勝手に電車で行けばいいのだ。行きたいところを探すための経験をしてもらうのが先である。
  • コミュニケーションにもストックとフローがあると仮定しよう。ただし、人の経験記憶はそのどちらでもない。その上でコミュニケートする際はなんらかの立脚点、「本日の議題」「わしが○FC会長、id○○である」「google検索:これはひどい」などがあれば、キーワードでつながるおもしろ会合である。
  • 友人と会話すれば、知識も見解も好悪もすっ飛ぶものだ。もちろん時間だって。キング・クリムゾンさえも敵ではない。

それを3つのエントリに書き上げました。すると1/3の純情な感情が余ってしまいました。
その余った感情を切り捨てて、ブロガー君は今日も更新するのでした。


ポエマー君はいつでもフレーズに分けてから考えます。
しかしそれはエントリにも、ましてやパラグラフにも分けられないものでした。ポエマー君は更新も改行もなく、寸感を書き並べました。

I 愛 逢 eye I 愛 逢 eye お猿さんだよ

(以下ポエムは検閲により削除されました)


いつまでも終わりません。
でも、ポエマー君は自分の思ったことを書いているだけですから、間違ったことをしているわけではありません。


●考察
通常私たちは、ブログ中毒のせい(か)でエントリーに分ける癖(エントリーで考える癖)が着いているんですね。
でも、よく考えると100文字コメントでまとめてもいいし、グループキーワードにしてもいい…。
さらに、掲示板では匿名や捨てハンでやっているので、id制が当たり前でもない。
ネットワークでない世界では小説や.txtが使われている。
どのやり方が正しいとか間違いとかではなく、表現が違うということ。


しかし、ここで疑問がわきます。エントリーが実人格と間違いする(認証ISPエラー)と言うのです。
表現が違うだけで、正しいとするならば、実存をブログで扱っても間違いはしないハズ。なのに、なぜエントリーは間違うのか?
私はいろいろなブログを読んでみて、ブログで表せないものがあるというよりも、無限に思いつくことをコンピューターに反映させることが難しいからだと理解しました。


数学が仮構なのと同じくらい、エントリーも仮構なのでしょう。
切り口には美しい切り口とそれなりに美しい切り口があるだけですね。
ブログ切株派の私は、美しいだけではないさまざまな切り口が見たいのです。バラシテ。

にこにこぷん

タイトルからポロリの存在が抹消されている!
いやそれより、じゃじゃ丸はにこにこではないだろう。にこにこぷんツンデレピッコロと非モテポロリのラブストーリーなので、本当に存在が謎な、じゃじゃ丸は、じゃじゃ丸はですね、<いたずらっ子>という属性のみをもってして、「怒のピッコロ」「哀のポロリ」がとりこぼす全て、喜だの楽だの嘲だの秩序だの、をカバーするのに七面六臂。見えない背中一つ分はハードボイルドなんだぜ。
そんなじゃじゃ丸萌えです俺は。いや。萌えじゃないな。そういう者に私はなりたい。じゃじゃ丸同一化願望。そういえば、二ノ宮ひかる「ベイビーリーフ」読んで、彼女の方になりたいと思った。志村貴子読んでもよくそう思う。川本真琴もそう。この辺を男の視点でから見ると萌えだよなー、って言説にはピンとこない。男の子だって女の子になりたいんだ。ならせてよ。なれないのか。差別だわー。男性蔑視。
こう来ると「ブタを見るような眼で蔑視して!」と書くのが論理的だが、豚を見てる人の眼なんて見たことない。