イノセンス「大丈夫か?大丈夫でないか?それが問題だ」

夏の終わり

主はかつて「気よ、向け」とおっしゃられましたが、そんなことで気が向くくらいなら石の上に三年座った姿が人格を剥ぎ取られ偶像になどなるものか。お久しぶりのお目通り。わしのおねしょを三年秘す為、三年寝過ごして布団と大地の霊的合一を果たしていました。その間、ゲームが一番、労働二番、blogはー三番目くらいにー気になるー存在?といったスタンスでね、バカ言ってんじゃないよ、blogのことは一日たりとも忘れたことなどなかった俺だぜ?三年目の浮気くらい大目に見ろよ。三年目の浮気くらい多めの期待感と背徳感にWAKU-WAKUさせてよ?DOKI-DOKIさせてよ?ついでだからHAN-SHOCKさせてよ?大人も子供もおねーさんでもかまいやしない。人間、大好き。死体性病です。大丈夫。問題はありません。

7月下旬頃にblogを更新する為のオフ会を開催しました。拳法で言うところの臨戦態勢と同義と考えていただきたい。結果としてオフ会は絶えることなく我が魂に及び、下は洪水にして我が魂は大火事、歩く姿は百合の花に思わず愚息を転蓮華、と相成りました。夏に終わりは来ないのか、それとも終わりがないのが終わりなの?いつになったらおうちにかえれるの?いつまでオフ会つづければいいの?いつからふるまいをネタとガチにあらかじめ分別しておくようになったの?いつまでもいつまでも笑いものはリサイクルできるゴミなの?死ねばいいのにとおもったら死ねばいいのにとかくかなくちゃいけないローカルルールはなくなるひがくるの?
そう。いつだって【いつ】が、It's the question。
最初は4本、続いて2本、それから3本。終わるのはいつ?問題というのはこういうものだ。

When ends the ending?

世界の終わり

グノーシス学派においては、カバラから由来して神のことをエイン・ソフと呼ぶと聞いています。エイン・ソフとは<虚無でありながら、無限である存在>を意味し、「自らの姿を目にするために、この世界を創造した」と言われています。大丈夫です。もうお薬は飲みましたって。
もう紙一重に神を噛み砕けば、自分って何か知るために思いつきをとにかく垂れ流してみたらいろんなしがらみから大変なことになった。インターネットみたいなやつですねエイン・ソフってのは。「自らの姿を目にするために、この世界を創造した」という逸話は先人が伝えたくなるのも無理はない格好よさです。100ReTweetはカタい。
未踏の天に向かうエイン・ソフの意志は立派なものですが、方法論に難があるように思われます。自分って何者なのか?そんなものはたいした問題ではありません。自分の外側にある世界との関係性の中で自分を探そうとするのは、天に向かう為に天に梯子を架けるようなものです。
自分とは、単に自分とは何かを探し求める人のことです。
問題がすなわち答えです。例えに即せば、向かおうと意識されるのがすなわち天なのです。ときどの背中にも、そう書いてありました。
ただし、「自分とは何か?」という疑問を抱いたところで、他者を求めるのは悪い筋ではないでしょう。自分の意志を評価する他者の存在は、確かに疑問の余地を無くしてくれます。ですが、疑問をなくすことで新たな問題が生じます。、【おれの意志】と釣り合うのに【世界まるごと】で大丈夫でしょうか?
便宜上、人の命の重さは平等とされていますので、【おれの意志】は【おまえの評価】によって保障されると考えることができます。結果、おれとおまえがいるだけで世界は丸い。しかしそれでは、大吾郎が足りません。おまえと天秤にかけて軽く持ち上がる大吾郎の存在があってはじめて、おまえはおれを評価するおまえ足りえます。そうでなくては、「本当におまえは必要ですか?」「2番目の大吾朗ではいけませんか?」とおれとおまえが仕分けられてしまいます。なんかよくわからなくなってきましたが、大丈夫なんですってば。整理はついてんだけど出すときにね。すっごいひっかかるんだどうしても。耳からだからね。パンダの。うん。ほらカンカンの。
ここまでの話をわかりやすく式にするとこうなります。

【おれの意志】=【おまえの評価】=【世界まるごと】=【無数の大吾朗】

命の重さは平等という前提がどっかいきましたがまあそれはそれとして、この式が成り立つとき、相対的に個々の大吾朗の価値はほとんど0となります。
「自分とは何か?」を知る為に【世界まるごと】を必要とすることによって、世界はあまねく無価値でなくてはなりません。そんな世界の中心で「おれはおれを肯定するッ!!」と叫ぶのは、かなり恥ずかしいことでしょう。

歴史的に見ても、我が固有の自分探しはやたらと難しいということが分かっていただけたかと思います。
つまり、問題はいつだってこういうものです。
自分を探し求めるのが終わるのはいつ?

When ends the ending?

幼年期の終わり

自分探しがいつ終わるのかを知る為に、自分探しがいつ始まったかまで遡ってみましょう。
はじまりの人と言えばアダムとイヴですが、この人たちは追放された元神の子なのは確定的に明らかなのであんまり自分を探したりしません。だからどうでもいいや。そしてアダムとイヴの産んだ人の子の名をアベルとカインといいます。アベルの兄、カインははじめての人の子であると同時に、はじめて嘘をついた人としても知られています。
アベルとカインの兄弟は神に命じられ、選び抜いたイイ感じの供え物を神に捧げたのですが、どうしたことか、神はアベルの供え物だけ受け取り、カインの供え物は受け取りませんでした。カインは不公平を憎悪し、アベルに嫉妬し、ついにアベルをぶち殺してしまいます。だってだって兄より優れた弟など存在しねぇ。おれの名前を言ってみろ〜。
このようにしてカインは、弟・アベルと対比することで自分を意識し、また同時に神に無視されたことで自分が分からなくなってしまいます。
その後、神はカインにアベルの行方を問います。カインの答えはこうです。
「知りません。私は永遠に弟の監視者なのですか?おれは嘘が大嫌いなんだぁ〜」
これが、人がはじめてついた嘘であると言われがちです。言われてもしょうがないと思いますが。

カインはこの罪によりエデンの東へと追放されてしまいますが、弟殺しの危険なチョイ悪としてモテまくりヤリまくり札束の風呂に入りまくり、結果カインの子孫が地に満ちて人類となりました。
いったいカインの罪とはなんだったのでしょう?カインの罪を知ることで開運パワーをその手に掴んであわよくば毎日500円くらい拾いたいという気持ち、ぼくもいっしょだよ。
この問題は非常に単純です。カインの罪とは、カインの幼稚さです。
神に認められなかった自分はカインにとってコレジャナイ自分であった一方、アベルはカインがこうなりたい自分でした。結果、カインはアベルをぶち殺しました。何のために?そう、カインにはビジョンがありませんでした。どうやってなりたい自分になるか、というビジョンが。自分のなりたい自分によく似た他人を否定し排除することは、なりたい自分に近づくこととイコールではありません。そんな方法では自分探しを終わらせることはできないのです。復讐の為に小説を出してもぼくたちは「バシュー」を忘れません。
決して終わらない方法で自分探しを始めてしまったこと、これこそがカインの罪です。
そして、罪を未来予想図に夢にもカムトゥルーしない考えなしの幼さ。これがイノセンスです。


イノセンスを恥じて、カインは嘘をつきます。
よりよい自分である為に全知全能の神ですら騙しとおそうとする嘘つき。そんなカインの末裔が人類です。
ではここでいつもの問題です。いつまで嘘をつけばいいのでしょう?

When ends the ending?

夜の終わり

仏教には、諸法無我という概念があります。かいつまんで言うと「自分が思う自分なんてだいたいぜんぶ自分じゃないから、自分を見つけたと思って満足すんな」といったものです。(I can't get no)Satisfactionならばbabyを32回も繰り返せもしよう。
では諸法無我にのっとれば、自分というのはいらない子なのでしょうか?嘘をついてまで自分を輝かせる必要などないのでしょうか?
いいえ。それは答えではありません。そもそも問題にすらなりません。


自分が思う自分なんてないことと私たちがただ嘘をつき続ける生き物であることは、まったく相反せず両立します。
嘘の中にだけ宿るもの。それが自分なのです。
諸法が無我ならば諸行は無常です。常に変わり続ける嘘が積もり積もって塗り重ねられていくリアリティ。嘘でできたもっともらしいリアリティ。そんな見知らぬ自分にいつか出会おうとするその意志を、無知だからこその知もまたイノセンスと言うのです。
明けない夜がないように、つけない嘘はありません。
いつまでも追い求めるということが、私たちが待ち続けたいつか。
だから私は、何度でも違う言い方で、「大丈夫」と嘘をつくでしょう。

いつでも問題を出してください。
「大丈夫か?大丈夫じゃないか?」

アンチ・マジカル ~魔法少女禁止法~ (一迅社文庫)

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2010の終わりに

今年は月1更新を目標にしていたのですが、こういった結果になりました。この結果を深く考慮し、来年は年1更新を目指します。