第9回文学フリマで配布した小説を公開します

タイトル『空いっぱいの肌』


P1
4さい。なつ。きらきらのひかりが、そら。
ぼくのからだってじつは、いろいろにまぶしい。いぬのふわふわ。ねんどのつやつや。かたつむりのからのざらざら。ぱじゃまのてかてか。たたみのすべすべ。ぼくのまわりの、きらきらのひかりを、そらっていうんだって。そらはみていてつまんなくなりません。でも、そらをむいてあるくと、おとうさんやみんなにばかにされるので、いつもはうえのほうのとおいあおいろをみます。おおきくうでをふって、あおいろをかきまぜながら、あるきます。そらはいつも、ぼくのちかくにいるので、ぼくのことがすきなんだとおもいます。


P2
11才。秋。手を伸ばしても届かない空。
音楽の時間、歌を習った。手のひらを太陽にふにゃららららーらーらー。みたいな。習ったけどもう忘れてた。そんで帰り道に実際やってみた。夕焼けの、何色っていうんだろう。赤くて青いけど、紫じゃない空とぼくの手。ありのままに、今気づいたことを話そう。近いかと思ったら、遠かった。さみしいとか苦しいとか、そんなもんじゃない、恐ろしい感じ。なんでぼくは、手を伸ばせば掴めそうだって信じていたんだろう。ひとりになりたいって思った。けど、そんなのどうしたらいいかわからないんだ。


P3
17歳。春。息苦しい煙だらけの空。
焦げ臭いような、息苦しいような匂いがする。きっと気のせいなんだろうけど。煙突からあがっている煙も、駐車場の隅で葬儀屋が吸うタバコの煙も、見えてはいてもここまで届いてはいないだろう。それでも空が濁っているように感じるのは、曇った天気のせいばかりじゃない。ちっとも劇的じゃねえけど、そんなの親父の脳の血管がちぎれて入院してから半年、ずっとそんな感じだ。灰になった親父が空気に溶けて、ただ同じような空でも違うものが混じってしまったような、きっとそういうことなんだろう。


P4
25歳。夏。シックスナインのむこうに空。
どしゃ降りの雨で何処にもでかけたくないし、他にやることもない時に重ねる肌は、妙に汗ばんで憂鬱だなぁ。みつを。とか俳句ができるくらいに、俳句じゃねえ、んでもそんくらい歯車。ほらあれ、ハツカネズミを運動させるときの滑車?みたいに、ご奉仕いたしますワンワン!ハツカネズミじゃねえ。アホなこと考えながらでも、舌は偉い。確実性と意外性を織り交ぜつつがんばってる。肌の下の筋肉が昂りだしたから、これで機嫌も治るだろう。明日には空も晴れて、きっといい日になるだろう。


P5
36歳。冬。ガラスに映った顔越しに見た空。
思いのほか、疲れた顔をしていて驚いた。老いたのはいつのまにだろう。過去を振り返り眺めてみるのは、時折空を見上げることに似ている。何度と繰り返したことなのに、その時初めて見つけたような思いがする。何を?何だって。変わっていく空の表情に出会っては忘れて、それでも肌は老いていく。言葉にしてみるとひどく陳腐で、もっと若ければ憎んだり蔑んだり無視したりしたことだろう。今は根拠もなく頼もしい。気づくことも言葉にすることもなく時間が流れていくことが、とても頼もしい。


P6
53歳。春。夢にみた空にある夢。
左手に怪我をして仕事もできないので、昼近くまで微睡んでいた。痛みが、まるで空と肌に境目なんてないような気にさせてくれる。いや、もっと以前から、思っていたのだ。空とは、夢だ。目覚めるか目覚めないかの境目の、幸福な余韻を残して消えていく、微睡みに見る夢だ。儘ならない不幸を重ねて、少しずつ借金に押し潰されていく生活を、それでも空なら変えることができる。いや、変えるのだ。頼りなく浮く風船のように、流されてきたこれまでの私を。己の意志で、どこまでも飛ばなくてはならない。


P7
53歳。冬。空いっぱいの肌。
最後の焼酎の瓶をゴンドラから落とした。あとは高度1万メートルまで待てば、上昇気流がヘリウムでいっぱいの風船をアメリカまで運んでくれるだろう。ゴンドラを揺らさぬよう気をつけながら、空を眺める。私のファンタジー号を通り抜ける風に、肌いっぱいの空を感じる。さあ行こう。不安はあるけれど、空の自由さに身をまかせて、どこまでも飛んで行こう。

[google検索::風船おじさんを参考にしました]