博士の異常な根拠

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


実乃梨さん(26)(上の画像は16歳当時のもの)と飲みに行ったのだった。


「つまりですね、タモリなんですよ!」
「んあ?」
タモリなんですよタモリタモリ次第で人生というものは自由自在に」
「すいません生ふたつー!!」
「転がることができる!できるのです!ええ。転がり落ちたり、転じて福と成したり」
「んで最近何してんの?」
「何もしてねぇです。あ、ゲームはなんとか」
「またか!またそれか!」
「何をしてもうまくやれる気がしねぇんすよ」
「定期的にそれだねチミは」
「そうです私が何事もないよだから何にもないよ何も変じゃないオジサンです」
「長い」
「すいません」
「謝られてもー。あ、はいコッチ置いてくださーい。あと注文いいデスカ?」
「亡霊の話をしましょう。もう死んでしまって変わることのない亡霊は、しばしば過去の記憶の比喩として用いられるじゃないですか。ほら有賀ヒトシ『THE ビッグ・オー』とか。あれはいい。あれはとてもいいものですよ。なんであんなおもしろいのに終わってしまうんですかマガジンZは」
「ジャコサラダとー、鶏わさびとー、あ、串でテバと砂肝とー」
「一方で我々の意思は、過去によって規定されています。意思と言ってしまうと語弊があるので、判断といいましょうか。現在の我々が行うさまざまな判断をじっくり考えられるほど時間は待ってくれませんし、そんなに暇でもない。ですから、過去を根拠とすることで現在を判断し、未来を選ぼうとするわけですね」
「あのこのモツ煮込みってピリ辛ですか?そんなに辛くないですかー。じゃあこれもひとつ」
「このような過去・現在・未来といった配置には、盲点があります実は。ここでいうところの未来って、目先のことでしかないんですよ。長期的な計画性を欠いている。一方で、過去は堆積しているように思えますが、決して過去も段階的なものではありません。その時々に、取り出しやすい根拠となる過去を恣意的に選んでいるのではないか、という視点が抜け落ちています。端的に言って、現在に拘りすぎている」
「えーと、注文は以上で。あ、なんか食べたいものある?」
「みそ田楽」
「ハイ、以上でーす。よろしくおねがいしやーっす。じゃまとりあえず、今日もビールがうまくてよかったありがとーかんぱーい!(ゴキュゴキュ)ぷはー!うめー!この一杯のために生きてるねっ」
「(ゴキュゴキュ)現在の実感、リアリティの根拠として、過去は収まりのいい物語として納得される。このような過去のフィクション化といえる傾向がbloggerにはあるのではないでしょうか」
「うわ、やべーうまそー!ちょっと待ってまだ食べないで。ブログに載せる写真撮るから」
「まあそんなのは「そういうものですか」というより他ありません。リアルなんてフィクションの中にしかないですからね。手近なものをフィクションにすればリアリティの気が済むものならフィクションにしたらいい。You can do itの精神です。しかしそのリアリティの根拠は、過去にしかない。リアリティを通じて共感するというのは、よく似た過去を体験しているというだけのことですね」
「ねえこのツクネおいしいよー。食べてみなよー。すごいおいしくない?おいしくなくなくなくなくない?」
「けれど、過去もろくにないろくでもない人はじゃあリアリティをどうしたらいいのか。そこで、そこでタモリです。タモリが楽しそうにしているだけで、我々は楽しくなれる。タモリがどのように生きてきたか、タモリの過去にかかわらずタモリタモリです。ぼくは想像します。実は坂道や料理に、いやどんなものにだって大して興味はないのに、その場に当然のように存在するタモリを。我々はみなタモリを目指すのです。留保なき生の肯定を!好きを貫くと口では言う自由を!」
「まあ何があったかしんないけどさー、元気だしなよ」
「うん」
「じゃあここからは私のターン!私のたまりにたまった愚痴をっ、止められる手段がっ、貴様にあるかなっ!」
「ちょっと待って。ビールとなんか食うもの頼ませて」


とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

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