鬼さんこちら 絵になるほうへ

ラッスンゴレライの話をしよう。

無邪気にはしゃいでばかりいて、手を叩いて笑ってふざけあっていた頃からどれくらいの時が過ぎたか分からないけれど、貴方達はラッスンゴレライのことを覚えているだろうか?
自由だった。何もなかった。あるいは今の気持ちが何かに続いていくなんて思いもよらなかった。はちきれそうだった。忘れないと誓った一瞬ばかりだった。悔しさばかり覚えていた。狂っていた。狂っていた。素晴らしいなにかに出会えてなにか変わるような気がしてた。なにかが何なのかさっぱりわからなかった。説明して欲しかった。あの頃、ラッスンゴレライが確かにそこにいたことを、貴方達は覚えているだろうか?
もちろん僕が知っているラッスンゴレライが貴方にとってのラッスンゴレライと同じものだとは言えないかもしれない。ぼくがときどき鈍い傷のように思い出すラッスンゴレライとは違い、貴方はラッスンゴレライを取るに足らない、所詮ラッスンゴレライでしかない、いやたかがラッスンゴレないラッスンゴレライだと捉えているかもしれない。もしかしてラッスンゴレライみたいなものをそんな大げさにラッスンゴレられても単なるラッスンチゴレンタルな感傷じゃないか、と笑っているかもしれない。ラッスしたものをゴレしたがるおッスンのレーライを誰もがラッするごレラレラだとは、あまつさえ、レラツゴレ、レラするなんてンゴレっているかもゴレライ。そレラらばスンゴレレラい。でも、貴方がラッスンゴレれなかったとしても、ラッスンゴレライはスンゴレラったのだ。たしかに。あの頃に。

ひさしぶりに筆をとるものだから上手く表現することができないかもしれない、というまったくもって僕の能力の問題で申し訳ないけれど、ここからはラッスンゴレライのことを共感と表記することを許して欲しい。ちょっと待ってと言われても考えなおす気はない。
共感の話をしよう。
あの頃、確かに共感があった。共感できることがすべてだった、そういう時があった。貴方のことを自分のことのように思うことができた。僕と同じように感じている貴方がいることが嬉しかった。まるで僕の気持ちを説明してくれているような言葉を読んで胸を打たれた。自分ではない誰かのことを理解できた、ということの全能感に酔っていた。貴方に分かってもらえない感情ならば存在しているだけだった。存在している価値もなかった。共感できないということは欠陥があるということも同然だと思い込んでいた。共感以外なんてどこにもなかった。
共感することを強いられているのは環境のせいなのか、個人の問題なのかは僕の語ることじゃない。ただあの頃を遠くに過ぎて、ほんとうは僕と貴方がぜんぜん違うことを思っていたから、だから共感したがっていたのかもしれないと気づく。その時がくる。
どんなに求めてもダメだと繰り返し拒否される。あれこれと言葉を尽くしても、最後にはくちびるを噛み締めながら「イイじゃないか」と呟くしかない。
こうして、僕は共感を忘れてしまう。
最初から忘れてしまうものだった、と納得しようとする。

それでも貴方の感じたことを、考えたことを受け止めようと思うのはワガママなんだろうか?
特別でもなんでもないスープを、人じゃないんだからと貴方が言うスープを、信じようと思うことは、それくらいは僕の勝手にさせてもらえないだろうか?


いつだって何か恐ろしいものから逃げ続けながら、それでもこの瞬間を切り取って、いつか馬鹿みたいだと、恥ずかしいと思うようなことを額縁に飾って残しておきたい。
気になることを、絵になるように、無になる前に、語るハメになる。
それで僕はblogを書いている。