文学フリマで人生をマネージメントして勝ち組になる10の方法についてそろそろ一言言っておくか。

Excuse

ようこそここへ、くっくくっく。あっと失礼、日課で青い鳥を絞めて断末魔を聞いてました。死体性病です。チャオ。あ、間違えた。これ青い鳥じゃなくて、インド人だった。いいか。いいや。
長らくのご無沙汰を越えて、思い出したかのようにblogを更新しますが、実際忘れてる間も存在してくれるのでblogは偉いですね。Spamトラックバックが16件届いていました。違うよ。忘れたりしてないよ。いつだって大切に思ってた。こうして書くと書かれたことが書かれる。そんな当たり前のことが大切だったよね。幸せだったよね。それでよかったんだよね。

Existence

書くことで存在することができるなら、沈黙は存在の奥行きです。2次元は沈黙によって3次元に広がります。沈黙を読むことで、人は距離を知り、遠近法を知り、地球の丸さを、星の遠さを知ったのです。それに比べたら中の人のことなんて、どうでもいいことじゃない。ほっといてくれ。

Exception

言わぬが花の中の人。しかし、中の人などいないと同じく、言わぬが花などという花はない。花はないのです。花にはそれぞれ名前があり、それぞれの先例に習って咲いています。つまりそう、3次元と4次元を隔てているのは先例です。

Excavator

先例をぶち抜いて新しいものを発掘する力。それがDer Mensch im Geistだと、近所に住んでるネオナチが夜毎叫んでるんですが、動機はなんであれ、新しいものが見たい。そういうの性病、嫌いじゃないぜ。嫌いになれないぜ。

Exaggerated

嘘。大げさ。紛らわしい。一般的にそういったものは、本当のものと勘違いすることで害がある、という理由で好まれません。それは世の嘘つき達がすぐリアリティを目指したがる、という志の低さが原因であり、大変申し訳ないと思っています。フィクションというのは、フィクションでなければありえない体験を2次元と4次元から3次元に放り込むことで、3次元を誇張するのが適切な用法です。

Exchange

体験というのは、何物にも換え難いものであるとされています。しかし、体験を流通させることはできないのでしょうか?どなたか挑戦してみたことのある方はいらっしゃいますか?

Exclamation

では、試しにやってみましょう。こちらをご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/extramegane/20090501/1241135880
http://neo.g.hatena.ne.jp/extramegane/20090501/1241170177

Extramegane

上記のリンクで、extrameganeさんの言うことを簡単にまとめると、こうなるでしょう。「話しかけるだけでおいしくなる水とか、履くだけで身長が伸びる靴もまた文学」
ご紹介しましょう。お客様にありえないことの体験をお持ち帰りいただける企画です。

Exciting

20090501084532
明日、2009年5月10日に大田区産業プラザPiO 大展示ホールにて行われる、第八回文学フリマにて、何かやります。QRコードを使用しますので、読み取り可能な携帯端末をお持ちいただけるとよいでしょう。なきゃないなりになんとかします。ブースはE-12。あとは、自分で調べてよ。そういうのも体験でしょうが。


連動して、最寄り駅の蒲田にちなんだミニブログサービス、『Kamatter』を用意しました。

http://kamatter.ddo.jp/public

ええ、パクリです。現実にあるものに似ているのは、とても親しみやすいですね。
おいでになられる方もなられない方も、こちらをご覧いただければ、体験いただけるようになっています。
『Kamatter』ご利用いただく際に注意がございます。

  • 新規登録はPCからだけ受け付けています
    • 会場からご覧になりたい方は、事前にIDを取得しておくのをオススメします
  • 閲覧するだけなら、モバイル用URI使用なので、上記のアドレスでOKです
  • ケータイからでもPCで登録したユーザ名でかきこめます
    • また、来場者の方向けの共有アカウントもご用意しております。詳しくはブースにて
  • ただし、申し訳ありませんが、Docomoユーザーの方は携帯からの書き込みが不可能かもしれません
  • フォローすることで、自分専用のタイムラインもご利用いただけます
    • タイムラインって言っていいの?大丈夫?あ、分かりやすさ重視で。はいはい
  • パブリックタイムライン(上記のURL)には、会場内で公開されるコンテンツとの連動があります
    • ですので、ブックマーク等はパブリックタイムラインにしますと、最大限お楽しみいただけます


ややこしい話は以上です。
明日1日、あなたの時間をQRとKamatterに頂きたい。TのほうよりもK。T<Kでお願いしたい。


死体性病は明日、時間いっぱい会場にてうろうろしたりうろうろされたりする予定でおります。
皆様に体験していただける様を見ることが、私の楽しみとなっておりますので、会場にいらっしゃる方もいらっしゃらない方も、どうぞ恥ずかしがらずに見せてください。

Etc.

あ、あとこのエントリが1000ブクマ行ったら、おっぱい公開します。おっぱいいっぱい。

降臨賞非応募作品 『キャッチャー・イン・ザ・ワイ』

僕の住む町じゃ空が落ちてくる。


この町は田舎らしい田舎で、つまり何もない町だ。大したものとか見るべきものとか、そういったものは。
ただ一つ特徴と言えるようなものを挙げるとしたら、Y町という名前――イニシャルではなく正式名称で、僕たちの保険証にアルファベットを記入するために、断固ウガイ?とかいうおっさんが会社を立てたとかなんとか――その由来となった、年季の入った櫓が駅前広場にある。根元を地面に突き立て、空に向けて大きく開いた先端を二つ結んで、日本古来の製法で作られたゴムっぽいものが垂れ下がっている。
想像しやすいよう似たものを挙げれば、スリングショット。あれをアホみたいにでかくして、塗りたくられた漆でぬらぬらしているもの。そう思ってもらえばいい。
年に一度の夏祭りで、僕たちは町一丸となって、女の子を空にぶっとばす。
落ちてくる空を、蹴っ飛ばして弾き返すために。


隣の娘さんである八智子さんが、今年の弾き天女に選ばれたと聞き、速やかにお隣に向かった僕は天女様になる心境をインタビュー、「地球は青かったですかー?」「空があたしより高いんだから青くないよー」「と、ということは、アポロは月に行っていなかった……!俺たちは、騙されていた……!」「なんでそういうロマンないこと言うかなー!もー」などと馬鹿話をした後、家帰って飯食って風呂入って部屋で泣いた。
なにしろ、弾き天女になった女の子は、基本戻ってこない。ラグランジュポイントにある雲の王国で暮らしているだとか、ニューギニアの奥地に着地してアマゾネスに加わるだとか、北朝鮮の領空侵犯をして打ち落とされるだとか、うさんくさい後日談はいろいろあるものの、ともかくもうYに戻ってくることは、ない。伝統行事の前では、一人の女の子の人生のこととか、その女の子の家族とか家族になれたらいいなーと思っている中学生男子のことは気にしてもらえないのだった。恐るべし伝統パワー。うえーん。
夏のくそ暑い中、わざわざ羽毛布団を引っ張り出してくるまって泣いていると、隣の家から「ねえねえ起きてるー」。八智子さんじゃないですか。「起きてるー」「なんでそんな鼻声なんー?」「いまちょっとほら、鼻うがいの真っ最中で、すげー鼻うがいスースーすんなー」「ねー、ちょー窓あけてー」「待って。鼻汁で大変なことになってるから待って」木を隠すなら森の中理論に従って、顔中をこすって真っ赤にして赤い目を誤魔化した僕は部屋の窓をあける。八智子さんも窓をあけている。「手ー伸ばしてー」「何よー」「いいからー」中学生二人がぎりぎり手を伸ばせば触れるくらいに、僕たちの家はお隣さんだ。
「これ持っといてー」「何これ?糸?」「絶対なくさんといてなー」「…うん。…あー今年は一緒に祭り行けんなー」「なー」「そん代わり八智子が飛ぶとこ、見ててな」「見る見る、ぜったい!」「うん!」「……」「……」「あー、そしたらおやすみ」「おやすみー」「風邪ひかないようにあったかくしなー」「するー」


祭りの日がきて、青年団の男衆の振り絞った全筋肉により、限界までひっぱられたゴムっぽいものから、八智子は空にぶっとばされる。
僕はそれを真下から見上げる。弾き天女のユニフォームはきっちり帯を締められている。パンツは見えない。「完全に、計算外だ…ちくしょう!」


あの晩、八智子にもらった糸は、耳のピアスにくくりつけてある。風が強い日なんか引っ張られて痛い痛い千切れちゃう。そんな時は、糸を専用の受話器(100円ショップで25個入りで売っている)につなぎかえる。
「もしもーし」「もしもーし」「空どう?」「あのね、高い!」「高いかー」「すごい!」「うん、すごいかー」「こないだ飛行機の人とすれちがったー」「マジで!」「親指で、こう、グッて。かっこよかったーロマンだよねー」「ふへー」
こんな会話を大体半日かけてする。音が糸を伝わるタイムラグが、ぼくらの距離がどんどん離れていくことを教える。


地元の高校に入った僕は部活に自転車部を選ぶ。自転車はどこでも行けるし、どこまでも行ける、すごい乗り物なのだ。でもひょっとしたら自動車や飛行機の免許も必要になるかもしれない。天文学とか地理も勉強しなくちゃ。そんななので、僕は結構忙しい。八智子に話しかけてから返事がくるまでのタイムラグは、どんどん長くなってきている。もう一日の会話は二言三言くらいになってきてる。それでも途切れたりすることはなくなった。糸が張り詰めてきているのだ。もうあんまり時間は残ってないかもしれない。でもがんばる。がんばるよ。八智子が空を蹴り飛ばして、慣性力を失って、どこかに落ちてきたときに、いつでも迎えにいけるように。いつかそのときまで、この町で、Y町にいて、僕は力を蓄えておく。だって迎えがいなきゃ寂しいだろうし、もし八智子が長い長い距離を落っこちる孤独と恐怖で泣いていたなら、ちゃんと受け止めてあげれたら、それは結構ロマンあるかなー、なんて思っているのだ。


動機元


【降臨賞】空から女の子が降ってくるオリジナルの創作小説・漫画… - 人力検索はてな


キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)


「「空から女の子が降ってくる話」を書くつもりが、いつまで経っても女の子が落ちてこないので非応募となってしまいました。自分で自分が残念です」

赤塚不二男 『タモリ、それでいいのか?』感想 後編

「ねえ、タモリ。それでいいのか?」
「……」
「それでいいのか?」
「……マア、アリッチャアリダ」

赤塚不二男『タモリ、それでいいのか?』

感想から逸脱して、ほとんどあらすじになってしまうのをお許し願いたい。この物語は多くの人に伝わりたいと願っていて、読者の一人にすぎない私もその願いが叶うよう祈ってしまうのを止めることができないのだ。

いつの時代もそうであったように、異端と正統は対峙を孕んでいる。情報と経済のリンクが、リンクする規模、あるいはリンクする速度が、飛躍的に増大した二十世紀に、対峙の構図は繰り返しよりミクロな対峙を孕む。双生児のマトリョーシカ。あるいはまるで、二十世紀に論述された数学でもっとも自然に近似したフラクタル構造を、更にまた近似したかのように、世間一般に対して異端であるアウトサイダーも、異端のうちの正統と異端のうちの異端に分かたれ、対峙している。地球をまるごと視界に収められるほど、人類は地球の引力に逆らう方法を手に入れている。
二十世紀の対峙のもっともマクロな形は二度の世界大戦として、そして二つの社会制度の宇宙開発競争として歴史に刻まれ、そして、歴史に残らないよりミクロな領域で、昼のタモリと夜のタモリの対峙が、ある。


つまり、評価が偏在している。タモリの、その受容が偏在している。民主主義が、民主主義というレフェリーによる共産主義への10カウントを聞いている時、タモリは需要によって受容が生まれている。ヒエラルキーが生まれている。テクノロジーとメディアによって、タモリは供給される。需要に従って供給され、需要に従って受容される。
かつては歴史に名を刻まれることのなかったタモリが、タモリ自身の歴史を持ち始める。
マスメディアを賑わせるアウトサイダーだったタモリがポピュラーなものとして、マスメディアそのものに成り代わった。本流。これが昼のタモリだ。
マスメディアに存在を気づかれることなく、ただ求める者にとっては唯一無二のオリジナルとして居座ったタモリもいた。傍流。これが夜のタモリだ。
昼のタモリと夜のタモリは固定された呼称ではなく、その時、その場所での勝者が昼のタモリと呼ばれた。そして彼らは、争い続けた。
二十世紀は、いわば戦争の世紀だった。そして、同時に、タモリの世紀でもあったのだ。


そんな二十世紀に、赤塚不二男が、いる。赤塚不二男は、多くの、昼のタモリを目指す夜のタモリの一人として、いる。
一度は昼のタモリになり、しかし形骸化し、ほとんど忘れ去られて、それでもタモリとして、そこにいる。自らの形骸となった過去と、自ら作り出し本流となったタモリの歴史に対するアウトサイダーとして、年老いてなお争い続けている。


そして、タモリがいる。
タモリの申し子として、タモリという代名詞の第一人者として、タモリが、いる。
タモリは、赤塚がかつて昼のタモリだった頃、見出された。
生粋のアウトサイダーであり、昼のタモリである赤塚が、自らでは満たすことのできない飢え。マスメディアには乗せられないが、表現者として、求めてやまない「なんだかよく分からないがおもしろい」ことを表現するために、タモリは見出された。


タモリは赤塚を越えた。
赤塚を上回る昼のタモリとしてお茶の間の顔となり、同時に夜のタモリとしてタモリ倶楽部を組織した。
昼と夜、合い争う双生児の王として、タモリは君臨した。
そんなタモリを赤塚は受け入れられなかった。マスメディアであり、アウトサイダーであるという矛盾を目指し、引き裂かれた先達として、赤塚は尋ねる。「タモリ、それでいいのか?」
赤塚を、サングラス越しに、タモリは見た。窺い知れない表情は、しかし、確かに、笑っているように、赤塚には見えた。タモリが応えた。「マア、アリッチャアリダ」


すべてのタモリの争いは、その対峙は、次なる対峙に代わって、矛盾を孕むようになる。
矛盾もまた双生児だ。二人の胎児は、主観評価と客観評価、と名づけられる。かつて、そのような双子は、期待と落胆と呼ばれていた。双子が手を取り合って仲良く育てば、いつか願望と希望と呼ばれる日が来るかもしれない。双子は時に喧嘩もするだろう。しかしいつか、一つになって何かを成し遂げるかもしれない。もちろん呼び名は単なる呼称で、それ以上の意味も如何なる意思も未だこの世に現れていない。タモリタモリを知るときに、想像上か想像以上かは判明するだろう。産めよ増やせよ地に満ちよ。タモリはぽこぽこ増えていく。ほんの少しの勇気をだせば、ほんのちょっぴり絶望すれば、あなたいつでもアウトサイダー。しかしそれもまた次の世紀の話であり、ここにはまだ記されていない。


二十一世紀の初め、赤塚不二男が生涯を終える。
その葬儀において、タモリが、赤塚の弔辞を読む。


この日が、二十世紀最後の日となる。
タモリは二十世紀と共に生きた。そして、まだ生きている。

死体性病が同人誌『Tamorization』に参加するようです。やる夫じゃねえ。一切関係ないやる夫は。

http://bwn.g.hatena.ne.jp/keyword/Tamorization

11/9 秋葉原(東京都中小企業振興公社 秋葉原庁舎 第1・第2展示室)で開催される、第七回文学フリマで販売される同人誌『Tamorization』に死体性病がなんか書きました。
販売ブースは、2階B-18「古い夢」(はてなid azminさん、およびg.hatena「ゆとり世代部」のブース)になります。
いろんなはてなidの人が、タモリをダシに好き勝手書いた同人誌らしいよ。バイツァ・ダスト(行って、買え)
通販や今後の販売の予定は一切ありません。当日会場に行かないが欲しい人は、死体性病に連絡いただければ取り置きとかします。
一冊でも多く売るのに必死です性病は。
買ってください。
いいですか。
買ってください。
わかっていただけましたか。

この記事は当日まで最上段に表示します。

赤塚不二男『タモリ、それでいいのか?』感想 前編

二十世紀は異端に商品価値が成立した、いわばアウトサイダーの世紀だった。しかし、同時に、二十世紀はタモリの世紀でもあったのだ。

赤塚不二男『タモリ、それでいいのか?』

かっこいい。かっこよすぎる。荒唐無稽でハチャメチャであるのだが、そのハチャメチャが持つ力が、地球を、あるいは二十世紀という時間を丸ごとぶつけられるような衝撃である。

本書は、タモリの系譜を追っていくことで近代史の新たな一面を描く歴史小説のふりをしているが、もちろんデタラメである。だってなんだよタモリの系譜って。タモリは一個人・森田一義の芸名だからね。
しかし、不思議と説得力がある。あらゆる異端者を<タモリ>と冠し、ピカソ/ジョン・レノン/ティム・バートンといった時代を築いた芸術家をやたらとフランクに書く。ピカソが『ゲルニカ』を完成させた夜に、「やっべー。まじかっけー。俺天才じゃね?」と呟くくだりなどフリーダム過ぎる。ジョン・レノンがバスルームで『All You Need is Love』を鼻歌で作曲したとか、もうちょっと、ねえ。自重してくださいよ。


同時に、アウトサイダープロパガンダに利用されていくことで、世界大戦や共産主義崩壊に結びつけられていく。こうやってまとめてしまうと、どう見ても駅前で虚空に演説してる人の妄想としか思えないのだが、そんな無茶なデタラメがまたおもしろい。


さらに一方で、歴史に名を残さなかった異端者たちのエピソードも描く。世界を変えたアウトサイダーがやがて一般的になりつつ、アウトサイダーのままで潜伏する、それに出会って人生を変えられたとは口が裂けても言えないような個性豊かなアウトサイダーの系脈が、地球を飛び回りながら、やがて日本、福岡県に到達しタモリが生まれる。タモリの世紀、元年。このめまぐるしいハッタリには実に痺れた。


そして、タモリが生まれたその日を境に、二十世紀は混沌へ向かって突き進み始める。

後編は、同人誌『Tamorization』(http://bwn.g.hatena.ne.jp/keyword/Tamorization)に掲載されています!

というのは嘘です。


けどなんかいろいろ載ってるタモリ同人誌『Tamorization』は、明日販売されます!買いに来るといいよ!いいよ!

以前、はてなid・hachi-gzkさんにスタニワフス・レム『完全な真空』(asin:4336024707)を頂きました。その節はありがとうございます。なんか大変らしいですが、お元気でしょうか?
感想を書くよ書くよと言って早2年くらい立ちます。そろそろ時効も成立するのではないかと思うので別の本の感想を書きます。

博士の異常な根拠

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)


実乃梨さん(26)(上の画像は16歳当時のもの)と飲みに行ったのだった。


「つまりですね、タモリなんですよ!」
「んあ?」
タモリなんですよタモリタモリ次第で人生というものは自由自在に」
「すいません生ふたつー!!」
「転がることができる!できるのです!ええ。転がり落ちたり、転じて福と成したり」
「んで最近何してんの?」
「何もしてねぇです。あ、ゲームはなんとか」
「またか!またそれか!」
「何をしてもうまくやれる気がしねぇんすよ」
「定期的にそれだねチミは」
「そうです私が何事もないよだから何にもないよ何も変じゃないオジサンです」
「長い」
「すいません」
「謝られてもー。あ、はいコッチ置いてくださーい。あと注文いいデスカ?」
「亡霊の話をしましょう。もう死んでしまって変わることのない亡霊は、しばしば過去の記憶の比喩として用いられるじゃないですか。ほら有賀ヒトシ『THE ビッグ・オー』とか。あれはいい。あれはとてもいいものですよ。なんであんなおもしろいのに終わってしまうんですかマガジンZは」
「ジャコサラダとー、鶏わさびとー、あ、串でテバと砂肝とー」
「一方で我々の意思は、過去によって規定されています。意思と言ってしまうと語弊があるので、判断といいましょうか。現在の我々が行うさまざまな判断をじっくり考えられるほど時間は待ってくれませんし、そんなに暇でもない。ですから、過去を根拠とすることで現在を判断し、未来を選ぼうとするわけですね」
「あのこのモツ煮込みってピリ辛ですか?そんなに辛くないですかー。じゃあこれもひとつ」
「このような過去・現在・未来といった配置には、盲点があります実は。ここでいうところの未来って、目先のことでしかないんですよ。長期的な計画性を欠いている。一方で、過去は堆積しているように思えますが、決して過去も段階的なものではありません。その時々に、取り出しやすい根拠となる過去を恣意的に選んでいるのではないか、という視点が抜け落ちています。端的に言って、現在に拘りすぎている」
「えーと、注文は以上で。あ、なんか食べたいものある?」
「みそ田楽」
「ハイ、以上でーす。よろしくおねがいしやーっす。じゃまとりあえず、今日もビールがうまくてよかったありがとーかんぱーい!(ゴキュゴキュ)ぷはー!うめー!この一杯のために生きてるねっ」
「(ゴキュゴキュ)現在の実感、リアリティの根拠として、過去は収まりのいい物語として納得される。このような過去のフィクション化といえる傾向がbloggerにはあるのではないでしょうか」
「うわ、やべーうまそー!ちょっと待ってまだ食べないで。ブログに載せる写真撮るから」
「まあそんなのは「そういうものですか」というより他ありません。リアルなんてフィクションの中にしかないですからね。手近なものをフィクションにすればリアリティの気が済むものならフィクションにしたらいい。You can do itの精神です。しかしそのリアリティの根拠は、過去にしかない。リアリティを通じて共感するというのは、よく似た過去を体験しているというだけのことですね」
「ねえこのツクネおいしいよー。食べてみなよー。すごいおいしくない?おいしくなくなくなくなくない?」
「けれど、過去もろくにないろくでもない人はじゃあリアリティをどうしたらいいのか。そこで、そこでタモリです。タモリが楽しそうにしているだけで、我々は楽しくなれる。タモリがどのように生きてきたか、タモリの過去にかかわらずタモリタモリです。ぼくは想像します。実は坂道や料理に、いやどんなものにだって大して興味はないのに、その場に当然のように存在するタモリを。我々はみなタモリを目指すのです。留保なき生の肯定を!好きを貫くと口では言う自由を!」
「まあ何があったかしんないけどさー、元気だしなよ」
「うん」
「じゃあここからは私のターン!私のたまりにたまった愚痴をっ、止められる手段がっ、貴様にあるかなっ!」
「ちょっと待って。ビールとなんか食うもの頼ませて」


とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)

とらドラ!〈8〉 (電撃文庫)